最初で最後の捨て身の戦い
2 高く、そして遠い壁
ガシュマルの村は、四方を完全に塞がれている。
北は、砂漠しかない。正確には北西に向かって広がる、なだらかな斜面を覆う広大な砂の坂だ。蜃気楼と、砂に埋もれた大昔の石造神殿を目印に、わずかな運だけを頼りに進まねばならないのである。そして、その果てでは、時折、砂流が発生し、吸い込まれた者は二度と帰ってはこないという。それは、この村がとても高い所にあるため、遥か下に向けて滝のように砂が流れ落ちるからだという。
プシロシベの好きな東の丘も、そのすぐ向こうは断崖となっており、時々は大人までもが足を踏み外して行方知れずとなってしまうので、ほとんど誰も近寄ろうとはしない。これもだめだ。
南東にはアショウの密生する湖があるが、茎が絡まるため船は役に立たない。それでもがんばって端まで泳いで行ったという人によれば、湖の向こう岸は、やはり切り落とされたような目もくらむ崖になっているらしい。
『世界はずっとずっと低い所に広がっているのだ』
導師はかつて、そう教えてくれた。
『……というより、このガシュマルの村が、とても高い所にあるのじゃ。誰も近寄れないほど』
西には、そのガシュマル村よりさらに高く、巨大な山脈が聳え立っている。
山脈のてっぺんは、大抵は雲に隠されていた。雲の無い日でも、てっぺんは見えなかった。空より高いのに違いない。
だから、村の南西は陽もろくに当たらず、ひもじく枯れた狭い平地に、ぱらぱらと潅木が生え、得体の知れない猛禽がうろついているだけだ。
したがって、他の出ていくものたちがそうすると噂されているように、プシロシベもまた西の壁を越える以外にないようだった。
そこへ行くには、すり鉢を登るのが最短であることは、プシロシベにも、うすうす想像がついた。が、導師はそれを許しはすまい。
『だが、ぼくはもう、導師の弟子ではなくなった』
……そこは、『高くて遠い壁』と呼ばれる、不思議な谷だった。
天を支えると信じられている西の大山脈には、一ヶ所、切れ目があるのだ。
そこだけは、蒼い空の覗く壮大な裂け目になっている。人はそこを通って『外』へ降りられるというのである。
そこだけが、砂漠も、底無し沼のような湖も、絶壁もなく、緩やかな、しかし気が遠くなるほど長い下り道があるらしい。細く、壁に張り付いた蔓のように、それは伸びているはずだった。
修行の洞窟は村の中心よりやや南東寄りにあり、プシロシベの勘では、やはりすり鉢を登った先はその西の『高くて遠い壁』に通じるように思われた。
今までは恐ろしくて近寄ったことがない。だが、今のプシロシベにはむしろわくわくするような胸の高鳴りしか感じられなかった。
ぐずぐずしてはいられない。もしかするとロフォフォラはもう、すり鉢を登っているかも知れないのだ。
§
ガシュマル村の長老会議が召集されたという噂は、瞬く間に村中に広まった。道ゆく者たちも、みな一様にただならぬことが起きたのを察知したのか、伏し目がちに、黙ってすれ違うようだった。
そして、人々は何か不吉なものでも見上げるかのように、辺りをはばかるようにその大樹を指差し、樹上の小さな木製構造物について、小声で話した。
それこそは、長老会議の会場であった。
梢が見えないほど高く、そして大人が十人ほど腕を伸ばして初めて届くほど太い老木の枝の分かれ目に、小さな粗末な床が組まれており、そこに村の四人の長老と、四人の導師が座している。すなわち、ガシュマルには四つの修行グループがあり、村の子供たちは必ず、そのいずれかに属するよう決められているのである。
その会議は三昼夜にわたって続けられるのが常で、村に何か大きな問題が起きたときは必ずここで決裁するのがしきたりであった。
そこには、もちろんフィレモンの姿もあった。
会議衆は、東西南北にそれぞれ一から四までの長老が座し、その間に、フィレモンら四人の導師が座して、円を作っていた。
『知の道』を司るファン師、『学の道』を司るカメラー師、『武の道』を司るグワジン師、そして、『技の道』を司るフィレモン師の四人が、この村の導師の全てである。
何しろ大きな老大樹である。
葉の生い茂る細い枝は遥か上の方にしか残っておらず、それも霧のようにぼんやりと見渡す限り広がっている。木の真下に来ると、ほとんど天が覆われてしまったかのようだ。そんな大樹なので、幹には梯子段が取り付けられており、途中までは歩いて昇ることができるようになっている。登った先には、簡素だが、よく手入れされた床板がしつらえてあり、八人の会議衆が輪になって座るには丁度いい広さである。周りには大樹のめぐらせた幹と枝が縦横無尽に伸びており、天然の会議室となっている。
三日間の日程のうち、最終日の夕暮れまでは、誰も口を開こうとはしない。
ただ、風にそよぐ葉ずれの音に耳を澄ませ、昇ってはまた沈む陽を浴び、朝は鳥の歌に耳を楽しませ、夜は瞬く星明かりに肌をさらす。そうして、長老と導師たちは、何か天啓がひらめくのを待つかのように、ひたすら感覚を鋭敏にして、過ごすのだ。
やがて、辺りが紅の光に満たされ、瞼の裏にもその赤さがしみ入り始めた頃、八人は申し合わせたかのごとく、ゆるゆると目を開き、合掌した。
「……よいか。皆の衆」
一の長老が、まず口を開いた。
「ただならぬこととなった。まずこれを見ていただこう」
二の長老が肯き、眼前に干からびた枝のような腕を上げ、虚空に円を描いた。すると、空中に燐光が閃き、画像となって出現した。
「下界では、今もなお戦乱が絶えぬと聞く。クオ・クーは、その中でも最強の、いや最悪の武闘国家である」
八人の会議衆は、静かにその残虐な画像を見つめた。集団で村を襲い、略奪と殺戮の限りを尽くすイメージが、空中に次々と描き出された。だが、眉一つ動かすものはない。
「クオ・クーが興ったのはおよそ100年前じゃった。わがガシュマルは、今までも何人かの優れた子供たちを西方への旅に赴かせた……だが、これといった成果はあがっておらん」
「フィレモン師よ。そなたの育てた子供が、また一人旅立ったそうだな」
フィレモンは苦笑した。
「……のつもりじゃったが、なぜか三人も行ってしもうた。まったく、融通の利かない子ばかりじゃ」
「それは、西方への旅ですな?」
「いかにも。わしは、討伐などという、その場凌ぎに興味はない。道をきわめることこそ至上のことじゃ。道は二つあろう。ガシュマルに残るか、出るか、二つに一つじゃ。俗世に還り、生き延びねばならぬ運命を持つ子がしばしばおる。その子は、俗世を旅し、無事に通り抜けねばならん。そして、西方世界の王であり、偉大な賢者でもあるケス・トラに会うまで、旅を続けねばならぬ。ダツラという子は、その運命に選ばれた子じゃった。昨日、村から出しました」
四の長老がほおーっ、と感嘆した。
「ダツラくんか。名前は聞いている。なかなか優秀な子らしい。ダツラくんを、そうか、村から出したか」
けれども、グワジン師はあまり賛成ではないようだった。
「東方の叡智たる、わがガシュマルでは、何か足りないのであろうか。そもそも西方への旅は、あまりにも危険過ぎる。まして、クオ・クーが暴虐を振るうこの時期に『技』の道は、なぜ西方の賢知を必要とするのか」と、不信をあらわに、呟いた。グワジン師の修行は、主に肉体の鍛練と武芸に重きを置くもので、フィレモン師とはまったく正反対の『道』である。
フィレモンは動じなかった。
「『技』の道は、統合、合一にその目標を置く。もしそれが西方世界の長たるアシュマルにあるのなら、そこへ行かねばならぬ。たとえそれで命を落とそうとも」
そういってあごひげを撫で回している。
グワジン師はちょっと激したが、再び瞑目した。が、その口調はやや熱みを帯びて感じられた。
「わが『武』の道は、肉体と精神と魂の合一以外に何も求めぬ。東方と西方の差は、そこに至る道にあると考えられる。フィレモンどの。あなたは、わがガシュマルの子供たちの命を何とお考えか。これまでも、そなたは優秀なる弟子たちを旅立たせては、あたら命を粗末になされた。ダツラくんもまた、同じことではないのか」
フィレモン師は答えない。
「わが『武』の道から、退魔の大請願を掲げ、俗世に降りるならわかる、だが、なぜ、石を求め、石とともに生きる『技』の道が、クオ・クーと闘わねばならんのか?」
あいかわらず髭をさするだけのフィレモン師に代わって、三の長老が、
「フィレモン師は、西方世界アシュマルへの旅を命じたのであって、クオ・クー討伐を命じたのではない」と、割って入った。
けれどもフィレモン師はそこで、「いや、当然、クオ・クーは討つ。なぜなら、クオ・クーがその旅を妨げるのは当然だし、それを討たねば、西方への到達はならんからな」と、グワジン師の神経を逆撫でするような言葉を平然と述べ立てた。
グワジン師は、それでも静かな調子を保って、反論した。
「『知』『学』『武』『技』、いずれの道によっても、悪を討つものは、善である。しかしながら、善に力なくては、悪を討つことはならん。それを上回る強い善の力が必要であろう。フィレモン師よ、そなた、ダツラくんらの強さをどう思われるか?」
フィレモン師はとぼけて、
「それは、腕力のことですかな」と答えた。
「ガシュマルに四道あるが、もっともわからんのが、そなたの司る『技』の道であるな。フィレモン師よ、『技』とはなんであるか?」
「それがわかれば、修行の必要はござらん、かっ、かっ」と笑いかけたまま、髭をさする手を止めて、フィレモンはしばらく思案していた。
「洞窟の歩きかた、石の磨き方、それに使い方……ですかな」とグワジン師は嘲るように言い放ったが、それでもフィレモン師は動じなかった。
「洞窟をうまく歩けたかどうかではないんじゃ。歩くことを通して、洞窟を『知』ることじゃ。綺麗に磨き上げても、別にえらくはない、石と肌を接して語りあい、素直に石から『学』ぶことじゃ。石を見事な技で操っても、それに意味はない、『武』を以って石を制し、石と一体になることに意味があるのじゃ。。……『技』の道は、しかし、それら全てを統合したもう一点上にある。『心』を掴まねばならん。それが掴めないと思ったら、どんなに遠回りでも、また一歩一歩自分に語りかけながら進むのだ。それを見つけることは至難のことじゃな」
その時、一の長老が、重々しく語り始めたので、一同は再び瞑目した。
「……われらガシュマルは、兵を挙げてクオ・クーを討つことはできんのだ。それは、西方アシュマルとて同じことである。もしできたとしても、それでは、ガシュマルは、ガシュマルでなくなってしまう。皆の衆、わかるな?」
大樹がざさっ、ざさっ、と身震いし、すり抜ける風の冷たさは夜の近いことを知らせた。
「『心』を掴むとは、フィレモン師よ、うまい言い方であるな。だが、それは『技』の道に限ったことではないと思われる。四道いずれを通ろうと、行き着く先は同じであろう。いかがかな、フィレモン師よ」
いかにも、とフィレモン師は満足げに肯いた。一の長老はさらに続けた。
「皆のもの、しかし、ここはよく思案していただきたい。クオ・クーは、戦乱の下界を制圧し、さらにその侵略をガシュマル、アシュマルにまで広げんと目論む、最凶の軍事国家である。彼らは、金属製の戦車を率い、集団で村を襲い、火や毒の矢を用い、また、巨大な投石機を用いる。海に至れば、船団を組み、巨砲を載せて進む。これは、『技』の到達した、ひとつの境地と言えよう。『技』が、巨大な悪と結び付き、心ではなく物を掴まんとし、暴風となって吹き荒れておるのだ。これを鎮めるに、われらはいかにすべきであろうか?」
再び、二の長老が、虚空に手を回して、イメージを投影した。
どこかの村である。
刺し殺された男を踏みつけ、戦車が平和な村を燃やしている。女が犯されている。子供は壁に叩きつけられている。怒号と喚声と悲鳴が、嵐のように渦を巻いている。
刃物が閃き、煙る空気を切り裂き、凝固した血をこすり落とすように、また別の人間が切り裂かれる。
「仮に、兵力を以ってこれを鎮圧するとして」二の長老が声に苦悩を滲ませていった。
「われらガシュマル、いかにすべきか? 村の人間を集めれば、頭数は揃おう、だが、それが何になるか? そもそもあの『高くて遠い壁』を通り抜けられる者が、一体この村に何人おるか? われらガシュマルが軍事行動を起こすことは、最初から不可能なのだ」
「皆のもの。これを、ガシュマルとしては看過できるわけはない」
一の長老の声は悲痛である。
「ガシュマルは、西方のアシュマルと共に、世界の行く末を見守るべく運命付けられた。だからガシュマルは下界とは隔絶され、独立した村である。が、それゆえ、ガシュマルを出るには、あの『高くて遠い壁』を越えねばならぬ。クオ・クーはこの天然の防壁に阻まれ、今の所、わがガシュマルに直接侵略することができていない。が、われらもまた、下界に討って出ることがままならぬ」
グワジン師も聡明な瞳を開いて合掌すると、真摯に耳を傾けた。
「アシュマルには既に、クオ・クーの強力な打撃艦隊が迫っていると聞く。クオ・クーは何百人もの兵と、巨大な大砲を積んだ金属船を大量に建造しているのだ。絶海の孤島アシュマルも、これではいつまで持ちこたえるかわからぬ。われらガシュマルが今の所侵略を受けていないのは、クオ・クーの戦車軍団が『高くて遠い壁』を越える性能を持っていない、それだけの理由である。だが、クオ・クーはもう、空飛ぶ機械をも造り始めていると聞く」
「何と。老師よ、それは行によらずして、『技』そのものの力により空を飛行するという意味ですか」
カメラー師の問いに、一の長老は肯いた。
「その通りである。『技』は、そこまで底知れぬ力を持つものである。それが今、クオ・クーと結びつき、明日にもあの『高くて遠い壁』を越えて飛来するやも知れぬ。現にアシュマルもまた、完璧な要塞と思われていた島の至る所で、クオ・クー打撃艦隊の砲撃を受けているのだ。突破される日が来ないとは誰にも言えぬ」
「やはり、クオ・クーは討たねばならぬ」三の長老が苦しそうに言った。
「このままでは、誰にもクオ・クーを止めることはできなくなろう」
一座を思い沈黙が支配した。
と、それまで全く黙ったままだったファン師が、なにげない口調でフィレモン師にこう尋ねた。
「時にフィレモン師よ。ダツラくんを追って出ていった者とは、誰じゃね?」
「面目ない。わしの未熟ぶりをさらすものじゃ。ロフォフォラとプシロシベの二人が出ていきよった」
「おいおい、それを止めなかったのか、フィレモン師よ」
「止めるまでもあるまい。『高くて遠い壁』を越えられるような二人ではない。じゃが」
フィレモン師は、はた、と口を止め、遠くを見る目になった。
「……寂しがり屋のダツラのことじゃからな、わからん」
すっ、とカメラー師が割り込んで、
「ダツラくんと一緒なら、三人揃って越えられるやも知れぬ。そう言いたいんじゃな」と朗らかに言った。
カメラー師は一の長老に向き直り、合掌して顔を伏せてからおもむろに語り始めた。
「長老よ。謹んで申し上げまする。わたしには、クオ・クーをこのまま放置することは我慢なりませぬ。わが『学』の道は、このような傍若無人な輩どもに邪魔されて逃げ帰るような、軟弱な教えではない。そのことを、この機会に、とくとご覧に入れたい」
「どういう意味かな? カメラー師よ」
「わたしのところから、弟子を一人出しましょう。クレクレ・パトラなる法術使い。娘ながら、しっかりした知恵者にございます。法術を使わせれば、ガシュマルに並ぶものはおりません」
カメラー師は、フィレモン師の目を見つめ、にやりと意味ありげに笑った。
一の長老にもこれは意外な申し出だったらしく、しばらく黙っていると、ファン師も続いて弟子を出そうと言い出した。
「カメラー師に先を越されたな。わしも実は、一人頼もしい弟子を助けに行かせようと思っとる。パロオミと申す、楽器弾き。わしにもなにを考えているかわからん変わり者だがな、『知』の道を求める一の弟子でもある。ここ一番奇想天外なことをやらかす曲者じゃ」
「くせもの、か、わはは」とグワジン師が楽しそうに笑った。
「そういうことなら、わが『武』の道からも代表を出すとしよう。イッツァなる、剣の達人。その実力はまさに無双と言える」
フィレモン師は、黙って照れ臭そうに頭を掻いていたが、やがて、ぽつりと、
「……話がでかくなってきたのう」と漏らしたので、一同は大いに笑った。
「いや、フィレモン師よ、遠慮はいらぬのじゃ」と、さっきのことなど、気にも止めぬ快活な声でグワジン師が微笑んだ。
「じゃがな、わしはダツラを、別にクオ・クー討伐のためだけに出したわけではないぞ。それは、皆もわかっておろう」
フィレモン師はぽきぽきと背骨を鳴らして、困ったように言った。
「運命だったんじゃ。われら『技』の道は、石と語り、石の心を掴み、使いこなすことにある。ダツラはそれを掴めなかった。ダツラの運命は最初から『外』にあったのじゃ。じゃが、石を求める旅を、阻むものがおるなら、ダツラは闘わねばなるまい。クオ・クーじゃろうと何だろうと。自分の知恵を絞り、力を振り絞り、闘わねばなるまい。ダツラの運命なのじゃ」
それっきり、一座の会議は語るべきことがなくなってしまったようだった。
昼間の湿った暖かい空気が、夜のひんやりした風に吹きさらわれ、フィレモンの座る床にしっとりとした感触を残していった。昼までも鬱蒼と暗い樹の上の会議場は、今は漆黒の闇の帳に覆われ、沈黙が支配していた。
「クオ・クーは討たねばならんじゃろ。だが、修行の道はそれより上にあると、ダツラも知らねばならん。人の生死とか、正義とか、戦いとか、そういったものの上を、ダツラは見つめなければならん」
誰に言うともなく、フィレモン師は言葉を紡ぎだした。
「それにしても、厄介な運命を背負った子じゃ」
四の長老がぱん、ぱんと二度手を鳴らし、会議の終了を告げた。
「師達よ。そなたたちがそう申す以上、勝算あってのことと考える。従ってわれ等長老として、この議決になんら異存はない……但し。最後に、改めて皆に確認していただきたい。クオ・クーの軍事力についてだ。きゃつらの『技』は、このような兵器を産み出した」
宙に描きだされたイメージは、狂おしいものだった。
金属製の重戦車、ガタイ。幾つかの型があるらしい。兵士数人が、頑丈な黒い鋳鉄で造られた箱の中に居り、丸くない車輪のようなものが左右にある。まるで凶悪な顎のような鋭い金属の刃が前面に取り付けられており、他にも何か武器らしいものが表面に装備されている。不規則に伸ばされた輪のような左右の変な車輪は、牙のように刺を持ち、どんなでこぼこした地面にも噛付き、食い荒らし、前進していく。
「この推進装置をきゃつらは『カタピ』と呼ぶ。金属製の輪なのに、変形も伸縮も自在に見える、実に奇怪な『技』である」
木造の戦闘艦、ブラバキ。一艦ごとに形も大きさも少しずつ違うようだ。しかしどれも、櫂がないのに、波を蹴散らし進むことができる。中心に大きな構造物があり、小屋を載せているようだ。その後ろから、もくもくと煙を吐いている。
「燃えているわけではないぞ。見よ。これは、きゃつらの船の特徴である。推進機関があるのだ」
艦首には大きな鋼の筒が見える。男たちが三人がかりで操作し、鉄の巨大の弾を込めている。
「これがきゃつらの誇る大砲、バタ砲だ。大きすぎるし重すぎるし、ガタイで運ぶことはしていない。だが、船で運ぶのは簡単なのだ」
さらに、金属製の戦闘艦隊の主力、新鋭艦ガラバキ。大きい。バタ砲の何倍も大きなやつが、5個も乗っている。しかも、それぞれ、筒を6本ずつ付けている。島が動いているようだ。さすがのフィレモン師も、喉がしゅっと乾く思いがした。
「よいか、皆のもの。これは、きゃつらの使う代表的な巨大兵器だ。きゃつらは、こんな凶悪な『技』の成果を、大量に、怖れもなく造りつづけ、略奪と殺戮を続けるのだ」
「まるで、古代の戦いだ」フィレモン師は呟いた。
「災厄以前に存在したとされる、メリケン国の伝説を聞いたことはありますかな? やはり強大な『技』を悪用する軍事国家で……そっくりじゃ」
一の長老が立ち上がった。
深い哀しみを湛えた皺だらけの瞳を閉じると、一の長老は合掌し、木の葉の間から漏れる蒼い月光に頭を垂れた。
「クレクレ、パロオミ、イッツァの三人は、準備ができ次第出発させるがよい。ダツラらは既に『高くて遠い壁』に挑んでおろう。よいか。皆の衆。われらの子供たちがいかに闘うか期待しようではないか」
§
村を出てから、はや二日が経過した。
村を出たとロフォフォラは思っていたが……しかし、自分がガシュマルと外界を隔てる『高くて遠い壁』の前で、ただうろつき、うろたえているだけだったことに気付くのに、そう時間はかからなかった。これは一体どういうわけなのかしら、とロフォフォラは訝ったが、とにかく彼方に見える『高くて遠い壁』と名付けられた巨大山脈はどこまで歩いても、近づくことができなかった。近づくことができなければ、越えることはできない。いくら脚を棒にして歩きつづけても、その壮大で圧倒的な黒い影のような山脈の鋭利なシルエットは、一向に近づく気配がない。むしろ遠ざかってすらいるかのようだ。陽は登り、沈み、月明かりは疲労のにじむロフォフォラの浅黒い肌を冷ややかに照らした。
ロフォフォラは、自分の方向感覚を疑っただが、確かに行く手にそれは聳えたって居るのだ。天を圧するほど大きな、『壁』といわれるのも一目でうなずける山脈である。確かに自分はそこへ向けて歩を進めているのだ。いくら大きいとはいえ、一日歩きとおしてなお、距離感が全く縮められないとは、何かおかしい。
また、無為に陽が暮れていった。
ロフォフォラはいつしか、適当な岩の傍で目を閉じていた。
岩陰で膝を抱えていたロフォフォラは、頬を伝う冷たい滴の感触を夢うつつで追っていた。次第に意識が夢から浮かび上がり始めた。そして、自分が洞窟のすり鉢を無断で通り抜け、這いあがったところで眠ってしまったことを思い出していた。
『夜露……?』
何か、今の夢の中で自分が泣きじゃくっていたような気がする。だが、もう、目を開いてしまったロフォフォラには、どうしてもそれが思い出せなかった。岩と岩の間に押し付けた自分の腰に、しっかりと『石の弓』が縛り付けてあることを確認すると、ロフォフォラは立ち上がった。だが、不自然な姿勢で寝たせいか、体の節々が痛みでぎくしゃくしてしまう。
自分のまつげに新しい朝の光が糸を引くように思い、ロフォフォラは眉をちょっとしかめた。大きく伸びをすると、あくびをした。
「あーあ、ロフォフォラ、そんな大きいあくびをしてると、ダツラに嫌われちゃうぞ」
頭の上でプシロシベのいたずらっぽい声が響いた。
ロフォフォラはちょっと頬をゆるめると、振向きもせずに、
「あら。遅いのねプシロシベ。すり鉢で滑って落っこちて泣いているのかと思ったわ」と平然を装った。
小鳥のさえずりは、ここでは聞かれない。空気はやはりひんやりとして、高山特有の乾燥し切った固い風がひゅーひゅーと吹いている。
ぴょん、と岩から飛び降りたプシロシベは、腰の『石の笛』を取り出してひゅん、ひゅんと軽く回してからまた袋に納めた。
「うん。調子いいぞ。よく鳴る」
それから、もう一つの袋からシイの実を一掴み取り出して、ロフォフォラの手に握らせた。
「当ててあげようか、ロフォフォラ。あの『高くて遠い壁』を見ただけで、気が動転して、がっくりしてここで泣いてたんだろう」
「違うわよー」
「しかも、食べ物を忘れてきた。だから、ぼくは止めたじゃないか、追ってはいけないって」
「あなたこそ、結局来たじゃない。どうやってあの『高くて遠い壁』を越すつもりなのよぉ」
二人の立つ山頂は、見渡す限り峻険で、道はあるものの、険しい崖に沿ってまとわりつく細い紐のように遠くへ伸びている。道に沿ってぱらぱらと雑草や小さな樹が生えているものの、あとは黒く焦げたような色をした、でこぼこの奇岩に覆われている。
そして、空。
広い広い、遮るもののない巨大な薄蒼い、半透明の半球の内側に二人は居た。
それは、今まで四方を囲まれたガシュマルに居た二人には、初めて見る光景だったのだ。微かな風だが、それがあの彼方、遥か天球の果てから吹きそよいでくるのだと思うと、プシロシベは、頭がくらくらした。底知れぬ蒼い空と、弓なりに丸みを帯びた地平線を分けるのは、白くたなびく霞である。それが雲の海であることはプシロシベにもわかった。
「すごい景色だね。この山は、見渡す限りあのへんてこな岩だらけだ。ロフォフォラ、あれはまさか、植物じゃないよね?」
「まさか」
確かに、スケールこそまるで違うが、びっしりと山腹を覆う黒い苔のように見えないこともなかった。それは、間近に見ると、細かい噴気孔だらけの、黒くて軽い、綿を固めたような石だった。がしっと、拳で叩くと、それはからからと軽い音を立てて剥がれ落ちた。
ロフォフォラは、プシロシベの腕に無数の生傷があるのを見たが、それについては何も言わなかった。まだ幼いプシロシベは、枯葉色に薄汚れた、厚手のガトゥーンを引きずるようにして着込み、さらにもう一枚、端からほころび始めている布を無造作に首を通して垂らしていた。背中の背負った大きなヤンニは、何を詰め込んできたのか、ぱんぱんに膨れあがっていて見るからに重そうだった。
「何? 何かおかしいかい」
ロフォフォラがじっと見るので、プシロシベは落ち着かなくなった。
「何か、変な虫でもついてるかい」
「いいえ。……プシロシベのガトゥーンは、お母さんに編んでもらった特製なのよね」
「ああそうだよ。アショールもそう。だって、岩から落ちたとき、危ないでしょ。ほら、糸だって、太いでしょう。こんな太いアショウの繊維、普通ないでしょう」
腕をさっとまくって布の端からほつれた糸をつまみ上げて見せるプシロシベだった。元は白かった筈の、固くよじり合わされた繊維も、今は土埃にまみれてすっかり変色していた。が、ちょっとプシロシベが引っ張ると、その断面から、最初のままの白い色が覗いた。
「ほら、こんな太いアショウの繊維。見つけるのは大変なんだよ」
「重そうね」くすっ、とロフォフォラは白い歯を見せた。
二人は、てくてくと歩き始めた。
道は次第に上に登っていた。いつもは下から見上げていた山脈に、今二人は登りつつあった。晴れやかな朝の大気は、ここでも同じ様に、二人をさわやかに、快活にした。
ほどなく視界は急に開け、振向けば眼下に、ガシュマルの村があった。
『なんて、狭いのだろう』
プシロシベはため息が出るほど、念入りに村を見下ろした。
『いつもあそこから見つめていた山に、ぼくは今登っている。どんなに高いところかと思っていたけど、来てみればそう大変でもなかった』
左手に見える砂漠と、反対側の湖は茫洋として霞のようにひろがっており、その狭間の一ヶ所、ここしかない、という場所に彼らの村は細々と息づいていた。
「行くわよ」
ロフォフォラはまた泣いているように見えた。
歩きだした二人は、ほどなく大きく突き出した岩を見つけた。それは、他の岩や石ころとは違い、人の手になるもののようだった。表面は、ちょうど川底の石のように腐蝕され、磨耗してはいるが、かつては綺麗に彩色されていたものらしい。でこぼこした表面の、へこんだ所には、顔料のこびりついた痕跡がわずかに見てとれる。黒ずんで汚れてはいるが、かつては鋭角的に端正に仕上げられ、慎ましやかに艶々と輝きを放っていたのであろう。
小さな、四角い石塔である。
あっちにもあるわ、とロフォフォラは前方を指差した。よく見ると、間隔こそ広いが、均等に、四つの同じ様な石塔が並んでいるのがわかった。
そのひとつに近づき、プシロシベはしげしげと観察してみた。
高さは、丁度プシロシベの背丈と同じくらいで、石が四段積み重ねられている。とても精密な『技』なので、最初から一個の岩だったのを、線刻を施して組み跡に見せかけたかのようだ。プシロシベはそっとその縦横に走る筋を、そっと指先でなぞってみた。ガシュマルで育った彼には、確かに違う石の組み合わせとわかった。指先の皮膚に微妙に感じるざらつき具合が、異なるのである。それは、石の持つ温度の差のようでもある。
けれども、それが線刻ではないと確信されたのは、本当の線刻が、その石を接いだ跡にまたがって刻みこまれていたからだった。傍らから首を突き出していたロフォフォラが、先に気付いた。
「導師さまだわ……」
羽の生えた奇妙な老人、顎鬚をたくわえ、羽を大きく広げ、手には書物らしきものをその岩の刻印を見るなり、プシロシベは冷水を浴びせられたようにぎくりと動きを止めた。間違いなく、彼らの導師・フィレモンを描いたものだ。つまり、これはフィレモンの墓なのである。
プシロシベは何かの気配を感じた。それより早く、ロフォフォラはすっくと背を伸ばして弓を取り出していた。
流れるように無駄なく、ロフォフォラは弓を構えた。いつの間にやら背にしょった弓を一本抜き、石の弓を引き絞っている。石の弓は信じられないほど柔軟に、力強くしなり、鉱物特有のきんきんした音を上げて、しなやかにたわんだ。
『あ、ちょっと、待ってくださいな』
と語りかける声がする。
空気が凝集して形を為すように、ホウの姿が現われた。
ツウとマウの長い髪が、ホウの左右から、ひょい、ひょい、と見え隠れした。
ぺこり、と礼を返すとロフォフォラは弓を降ろして非礼を詫びた。プシロシベはなぜか足元の小石を握り締めていたので、頭を掻いてそれを抛り投げた。
『プシロシベさん、ロフォフォラさん、ここが高くて遠い壁ですよ。何をうろたえておられるのですか?』
いたずらっぽい三つの微笑みがかき消すように消えた。その後には、小さな袋が、ぽつんと落ちていた。
全て、一瞬のことだった。
二人は目を見合わせ、考え込んでしまった。
「どういうこと? 今の?」
「今、確かに居たよ。ホウさん達だったよ……ね?」
二人はぴったり背中を合わせて、周りを見渡した。
「いない」
「いないわ」
「つけてきたのかな?」
「ええ、でも、止める気はなさそう。何かくれたわよ、そこに落ちてる」
袋には、何か小さな道具が幾つか入っているようだったが、二人にはどうしてもその縛られた結び目をほどくことができなかった。
しかも、また、道の向こうで人の騒ぐ声がする。
「ここ、村のはずれだろ。こんな山の上に、何でこんなに人が多いんだ」
「昨日までは、誰もいなかったわよ! あなたが来てから、こうなったのよ」
「二日もこんなとこでぐずぐずしているからいけないんだよ」
二人は、道を走り始めた。ここからは見えないが、下った辺りで、怒鳴り声がする。
§
「けっけぇ、なんだぁ、この娘はぁ」
下卑た笑い声が響き、それに続いて小馬鹿にしたような大勢の嘲る声が沸き起こった。端正に背筋を伸ばして、美しい音色を立てる鈴の杖を手にした少女は、鼻にもかけないといった様子で、すましかえっている。服は編みたてのアショウのように白く、しかも皺一つない美しい衣装である。ダツラ達とは違い、薄汚れたガトゥーンではない。いわゆる法術使いの衣装、ラシャンバだった。それにしても、垂らした前髪といい、ちょこん、ちょこん、と歩く仕草といい、いかにも幼い。それがつん、とすまして、山道を登ってくるのだから、とても不調和な感じを与えていた。
少女は立ち止まり、くるり、と奇妙な仕方で振向いた。そして、びしっ、と錫杖を突きつけた。
「あなたがた。クオ・クーの人たちですね」
連中はどう見てもまともではない。手に手に奇怪な武器を持ち、あるものは鎖鎌のようなものを振り回し、あるものは巨大な斧を振りかざし、じわり、じわり、と寄ってくる。目がらんらんと、狂気を宿している。
「ガシュマルだな。ガシュマルから出てきたんだな、お嬢ちゃんよぉ」
ひと際大きな髭もじゃの男がうめくように言葉を吐いた。「けっけっ、ガシュマルにゃぁ、どうやって出入りするんだぁ? 教えろよ、けっ、けっ」
クレクレパトラは、その色白の頬をやや紅潮させた。
「ええ? お嬢ちゃんよお。とっとと白状しねぇと、お仕置きしてやるぜぇ」
だが、幼い顔は、きりりと唇を引き締めたまま、じっと男たちを見上げたままだ。突き出された錫杖は、ぴくりとも震えがない。
「ここは外れとはいえ、まだガシュマル村。あなたがたは、いったいどうやってここまで入り込んだのですか」
ひっ、ひっ、と髭面の男が舌なめずりをくり返し、クレクレパトラの可愛らしい立ち姿を上からしたまで見下ろしている。
「答えなさい! クオ・クーが、なぜ、ガシュマルに入ることができたのです」
男はひぇっ、ひぇっ、と下卑た笑いとともに、干からびた、切断された男の首を投げ付けた。今まで、そんなものをぶら下げて歩いていたらしい。
「お嬢ちゃん、お名前なんてぇんだ?」
「へへへ、もうちょっと大きけりゃなぁ、たーっぷり可愛がってやんのによぉ」
「入れたら、股が裂けちまいそうだもんなぁ」
男の背後に一瞬、クレクレパトラの視線が移った。
この先に高くて遠い壁があるらしい。クレクレパトラも、導師に教わって知っているが、実際に見るのは初めてだ。
いや、見えてはいない。それは目に見えない、術による障壁なのだ。
ガシュマルと、下界を遮る、目にみえない障壁がある。それは、法術によって張られた結界である。
だが、この愚連隊どもは、その結界を破って、ガシュマルの入り口までやってきたことになる。なぜだろう? クレクレパトラは、急に恐ろしくなった。
「なぜです、答えなさい! 結界を、どうやって破りました?」
髭もじゃ男は、丸太のように太い脚をぶん、と回してクレクレパトラを蹴倒した。
「ガキじゃ物足りねぇが、かまうこたぁねぇ、やっちめぇ」
とわめき、下半身をむき出しにしてクレクレパトラに覆い被さろうとした。
きーん、と空を切る音がして、髭もじゃ男は仰向けにひっくり返った。
「?」
倒れた男の頭を、一本の矢が貫いている。ひぃっ、とわめいて、残った男たちは辺りを見回すと、我先に散り散りに逃げ出していった。
倒れた男が息をしていないのを確認し、クレクレパトラはぴょこり、と人形のように起き上がった。ちりりん、と音を立てて、錫杖が突きつけられたが、相手は既に絶命しているようで、鈴には、何の反応も感じられない。
錫杖をぽん、と地面に刺し、クレクレパトラは走り去る男たちを目で追った。
また、きぃーん、という音がして、全員が倒れるのが、見えた。音は一つだったが、矢は数本同時に到達したようである。
ラシャンバの裾に付いた草きれをぱた、ぱた、とほろい、クレクレパトラは周囲を見回し、小首を傾げた。
『弓? しかし、石のような音』
今になって、手首が震えている。
『石の音? 導師の言っていた、ダツラがいるのかしら?』
しかし、近寄ってきた人影は二つである。
ガトゥーンに身を包む、少年と少女だった。少女は、大きな黒光りする弓を背負っている。
一方の、ラシャンバに身を包んで錫杖を構えるクレクレパトラは、一目で法術使いと分かる姿であった。
「あぶないな。法術なんかでクオ・クーに勝てるわけないだろう」と、いきなり失礼なことをプシロシベは言った。
「あなたが、ダツラさんですか?」
「違うよ。なんで、ダツラを知っているの。もしかして、ダツラの彼女?」
ロフォフォラが、プシロシベに張り手を食らわせた。
「さしでがましいまねをして、ごめんなさい? さっきの矢は、あたしよ」
仰向けに倒れた髭もじゃの死骸に、ロフォフォラは手を合わせた。プシロシベも、クレクレパトラもそうした。
男の胸は乱暴そのものといった感じで胸毛が密生し、衣服も、何か普通ではない。
黒い、皮だろうか? しかも、手首にも妙な帯びが巻いてあり、金属の刺が一杯ついている。男の持ってきた、生首につまずいたプシロシベはひぃーっと悲鳴を上げて飛び上がった。
手に、鎖を握っている。その先には、大きなとげ刺の鉄球がつながっている。
「これを振り回されたら、危ないところだったね」 クレクレパトラはにっこり笑い、ちょっと首を傾げる仕草をしてみせた。
これじゃ、まるで、子供じゃないか……とプシロシベは思った。自分も子供だけど、いくらなんでも、この娘は幼すぎる。そのくせ、しゃべり方はしっかりして、言葉に力がある。「学」の子は、みんなこうなのだろうか、とぼんやり考えるプシロシベだった。
比べるともなしに、プシロシベの眼は傍らのロフォフォラに向いた。この娘に比べたら、ロフォフォラはずっと女だった。それも、髪をおろしてから、余計、そう見える。大きな瞳がきらめいて、艶やかというのだろうか……自分が、弟のような気がする。
クレクレパトラは、なぜ自分が来たのか、事情を話して聞かせた。
「じゃぁ、あと二人、来るわけだね。パロオミって子と、イッツァか」
「そうです、でも、二人とも、先に行ってしまいました」
それよりもとクレクレパトラは話を続けた。
「大変です。今の人達は、クオ・クーの手のものでした。なぜか、ここまで侵入しているのです」と、クレクレパトラは懐から紙を取り出した。そして、右の袂から筆を取り出し何か書くと、えい、えい、と紙を振った。
掌の中で、紙は、ぼっ、と火を上げた。プシロシベとロフォフォラは心配そうに覗きこむが、クレクレパトラの顔色は全く変わらない。どころか、むしろ炎の感触を楽しんでいるかのようである。紙が燃え、黒くしわしわになり、灰色の燃えかすとなり、そして、何も残らなかった。
「何をしたんだい」
「導師に手紙を送りました。どうやら、この先の結界が破れているようですから。わたしの力では直せないのです」
二人は、初めて見る『学』の術にしばし見とれた。
§
「あたしにはわかるわ」
霧に包まれた地面に耳を当てて、ロフォフォラが呟いた。
「ここをダツラが通った。歩いていったのよ」
まさか、と頭の上で、プシロシベが応えた。
「いいえ、通ったのよ。このまま歩いていったわ」
まさか、まさか、とプシロシベが応えた。気を悪くしたロフォフォラは地面から耳を離し、ふん、と立ち上がった。
「何がまさかよ。歩いていったわ」
「歩いてはいないと思うなぁ」とプシロシベは意地悪い言い方をした。クレクレパトラまでが、ええ、と肯いて、前方を指した。
あっ、と小さな叫びを上げるロフォフォラだった。
霧がそこだけ切れて、めくるめく下界が遥か下方に、広がっている。
下界だ!
そこだけ、岩の壁が小さな口を開け、足元のすぐ下は断崖絶壁である。
霞む大気の靄を通して、村が、町が、畑が、彼方に広がっている。
「まるで、洞窟の出口だ」とプシロシベは感嘆した。
クレクレパトラは錫杖を振るい、空気中の何かを探っていたが、とうとう諦めて一息ついた。
「わかりません。どうして、これが破れたのか」
「誰がやったんだい」
ちょっと躊躇してから、クレクレパトラは言った。「ダツラさんです」
「ダツラが? 高くて遠い壁の結界を破っていったのかい」
クレクレパトラは肯いた。
「すごいな。さすがダツラだ」
「わたしには」と、とげのある調子で、クレクレパトラが口を開いた。「とても乱暴な人に思えますが」
プシロシベとロフォフォラは、申し合わせたように振向いた。
「ダツラが?」
「普通に通り抜けることはできたはずです。しかし、ダツラさんは、結界を破り、壊して、通り抜けていきました。なぜですか」
返事をしない二人には遠慮がちに、しかし、一言一言力をこめて、クレクレパトラは続けた。
「ダツラさんという人が恐ろしい。何か、捨て鉢になっているのではないでしょうか。火花がちりちりと散っているような。そんな人に思えます」
クレクレパトラは、ダツラに会ったことがない。だから、何も知らないのだろう……とひとり納得したプシロシベは、あえて反論はしなかった。ロフォフォラもそれには答えず、黙っている。
「それより、さっきの連中だけど」
ロフォフォラはおそるおそる顔だけ出して、下を覗いた。
「まさか、他にも侵入しているんじゃ……こんな断崖を、どうやって登ったのかしら」
「第一、ダツラは、どうやってここを降りたんだろう。まさかヤケになって、飛び降りたんじゃないか」
「やめてプシロシベ」
「この先にも、何かからくりがあるのかい、クレクレパトラ」
いいえ、という返事が聞こえた。
「結界は、ただ、この岩の割れ目、高くて遠い壁に開いた唯一の抜け道を、隠すためのものです。許された者にしか、この結界は見えません」
「ロフォフォラには、見えなかったらしいね、二日間も。ははは」
「うるさいわねっ」
ロフォフォラはまた一本矢を引き抜くと、崖の彼方に向かって、きーん、と放った。
三人はしばし、耳を澄ませた。
だが、何かに当たった感じがない。
「幻じゃないわ。こんなとこから落ちたら、死ぬわよ」
「だから、『歩いて』はいない、ってさっきから言ってるでしょう」
風が強く巻き、下界からガシュマルへ、その小さな通り穴から吹き込んできた。
ロフォフォラはしっかと立っているが、クレクレパトラは今にも吹き飛ばされそうだ。でも、顔をしかめて目を守るロフォフォラと違って、相変わらず錫杖をついて、前を静かに見据えている。そして、
「ダツラさんは、ここを降りました。イッツァさんと、パロオミさんも、既に出ていったようです」と言った。聞けば、鈴が教えてくれるのだという。
「ぼくの石笛みたいなものかなぁ」
そう言って、プシロシベは無造作に笛をひゅーん、と回した。
顔を出していると、吸い込まれそうな気がする。まるで、木の枝が大きく張り出すように、まるで空中に途中まで掛けられた橋のように。
落っこちると大変なので、プシロシベは腹這いになって、顔をそっと出した。風がさらに強く巻いた。
「だめだ」プシロシベは笛をしまいこんだ。「風が強すぎるなぁ。これじゃ、音を探れないよ」
「でも」と横からロフォフォラが顔を出した。「岩がごつごつして、絶好の足場だわ。よく見ると、決まった間隔で岩が飛び出してるし」
その時、風にまじって、おーい、おーい、と声が呼んだ。
「ちょっと。やだ。なによ、あれ。見てよ」
ロフォフォラが何かを見つけたようだった。
空中に、一人の少年が立っているのだった。
「うそだろう。ねぇロフォフォラ、あれはどういう「技」だい」
なにやってんだい、早く来いよぉ、とまた声がする。
「ロフォフォラ、矢で撃っちゃえよ」
「まぁ。乱暴な。別にクオ・クーの人間ではないようよ」
「道じゃないんですか、あれ?」クレクレパトラが、するするっと身を乗り出そうとした。
プシロシベは、びっくりして抱き付いて押さえた。
「ばかだな! 落ちるよ、ほんとに」
毅然として振向くクレクレパトラのあどけない顔が、確信を持ってこう言った。
「話には聞いています。高くて遠い壁の向こうには、絶壁もなく、ただ、なだらかな、気の遠くなるような長い細い道があるだけなのです」
「だって、現に崖でしょう。下をごらん、あの岩にまず跳ぶよね、それから、あっちの……見える? あの、ちょっと尖った石まで跳んで降りて、それから」
「いいえ。これが道です。あの人は、パロオミさんでしょう」
早く来てよぉ、とまた声がする。
黙って話を聞いていたロフォフォラは、二人を押しのけ、その小さな岩の裂け目から、空中に身を躍らせた。
「あっ」
落ちた。だが、どたり、と音がすぐ下で聞こえた。
「早く来なさいよ」
お尻をさすって、ロフォフォラが見上げている。プシロシベには、空中にロフォフォラが浮いているようにしか見えなかった。
「これが道なのよ。いらっしゃいよ。目には見えないけど」
いや、見えるよ、と別の声がする。パロオミが、空中をゆるゆると一歩一歩慎重に近寄ってきていたのだ。ころころとよく肥った体が、肩を震わせて笑っている。
「ダツラくんは、君かい?」
プシロシベは顔だけ出して、違うよと応えた。
だろうね、と小馬鹿にしたように、唇の端を吊り上げたパロオミは、もうちょっとでロフォフォラに手の届くところまで戻ってきていた。
まずプシロシベが、次にクレクレパトラが、ぴょん、ぴょん、とその見えない空中の床に跳んだ。
プシロシベはロフォフォラと顔を見合わせ、とん、とん、と足踏みをしてみた。
固い。でも、プシロシベには、何も見えない。足元から、遥か下の世界が見えるので、二人とも目をつぶって、とんとんと繰り返した。
「イッツァは先に降りた」と、パロオミは相変わらず嘲笑を浮かべて続けた。「これで全員だな。ここを塞がなくちゃ」
「もう、知らせました」膝を抱えてしゃがみこんだクレクレパトラが、落ち着いて答えた。怯えてはいないようだが、やはり、目をつぶっている。気丈な子だが、さすがに立ち上がることはできないようだ。
「君も、ダツラを追っていくの?」顔を両手で覆ったまま、プシロシベが尋ねた。「あ、それより、クオ・クーの連中に会ったでしょう。四人も」
「全く、遅いんだからなぁ。もう、しびれを切らして、寝ていた」
風に揺られて落ちはしないかと、そわそわしながらプシロシベは聞いた。
「寝てたって。どこで」
「ここさ」パロオミは平然として言った。
「だって、あのクオ・クーの連中は、ここを登ってきたんじゃないの?」
「違う違う」とパロオミが笑った。「あんな連中に、この道が見えるもんか。ぼくには辛うじて見えるけど、君たち見えないだろ」
「じゃ、どうやって?」
「飛んできたのさ」
そう言って、パロオミは、プシロシベの手首を掴んで目を開かせた。
「ひぇっ、こわいよ」
「下は見なくていいんだ、後ろの壁を見てみな」
岩壁に振向いたプシロシベは、最初それが何だか分からなかった。
大きな黒い羽? 壁に激突したのか、ぐしゃぐしゃにひしゃげている。
飛び出した骨らしきものは、太陽の光を受けてきらきらときらめいている。銀色の骨だ。しかも細い。
それは、洞窟で見掛ける獰猛な鳥、バトウの大きなやつに見えた。
「それに乗って、やつらは来たんだよ」
「下界には、こんな鳥が居るのかい?」
パロオミはまた、あの嫌な笑い方をした。
「機械だ。空飛ぶ機械だよ。偶然、ここまで飛んできた。しかも、いつもなら見えない穴が、ここに空いていた。入っていくのは当然だな」
「それを、それを、君は、黙って見てたのかい?」
興奮したプシロシベは、落っこちそうになった。支えたのは、クレクレパトラである。「だから、寝てたんだ。起きてみたら、そこに、変な機械がぶつかって壊れてるだろ。壁の内側じゃ、矢になぎ倒されてる連中が見えるだろ。……後は、ここで待つだけじゃないか」
ロフォフォラが、プシロシベにそっと耳打ちしたこの人、信用できないわ。
「ぼくらは目がいい」パロオミは空を見上げて大きく伸びをした。
「見ただけで大抵、わかってしまう。その時には、もう、終わってしまっているんだ」
パロオミは先に立って、歩み始めた。
「行くよ。イッツァは、もう、下で暴れているかも知れない」
「何を暴れるんだい」
「この空飛ぶ機械は、この真下の森の中から飛び上がってくるんだ。つまり、ガシュマルの目と鼻の先に、こんなものを飛ばす基地があるんだぜ」
「見える?」
「まあ、ここまで飛んでこられたのは、あの一機だけだからね。偶然だろう。しかし、このまま放ってはおけないな」
怖くても目をつぶるなっ、とパロオミは命令した。ロフォフォラは、嫌な顔をしたが、また、指で顔を覆って、隙間からちらちら、と足元を見ている。
螺旋上に、渦を巻くように、空中の道は降りているようだ。
大きな黒い森が見える。
「ほら」とパロオミが指差した。「また飛び上がった。あそこは、奴等の基地だ」
けれども、他の誰にも、何も見えなかった。ただ、少しずつ、空気が濃くなっていくのをプシロシベは感じていた。
空気が濃く、重く、湿ってくるようだ。
光は、さらさらとした粉のようなものではなく、射すようなとげとげしたものに変わってきた。
これが、下界だな、と目をつぶったり開けたりしながらプシロシベは考えていた。
ばっ、とプシロシベは腰を支えられた。ねっとりするような体温が、掌から感じられ、プシロシベは身を固くした。
「危ないよ。ぼーっとするな」パロオミだった。
「道を踏み外したら終わりだよ」
急に、導師さまの顔が浮かび、お父さんとお母さんの顔が浮かび、プシロシベは目頭がじーんとした。こんな、見知らぬ子供達と、こんな得体の知れない世界に降りていくのが、急にいやになったのだ。
頭の中で、ダツラの跳びすさる素早い影が閃いた。ダツラには、この道が見えたのだろうか。そうとしか思えない。ダツラは、一人で、ここを降りたのだ。誰の助けも借りずに。
ひどく不安だった。
初めて見る「知」を学ぶ子、パロオミの生白い肌も、妙に不安をかき立てた。クレクレパトラのような、品位のある白さでなく、何か、不健康そのものといった印象の弾力のない、ぶくぶくした小太りの体の後を、一歩一歩進むのは、何だか屈辱的だった。
ダツラ! ダツラ! 早く会いたいよ……プシロシベは心に何度も叫んだ。