最初で最後の捨て身の戦い

1 出ていくもの


 人一人がやっと通れるような洞窟である。
 流れ出した溶岩が垂れかかったまま冷え固まってしまったような壁面は、通るものの聴覚を圧迫した。静まり返ったこの洞窟では、物言わぬ岩盤の重みを、耳で感じられるのである。重さそれ自体が、大きな残響となって鳴り響いているのだ。……もちろん、実際に音を発しているわけではないのだが、ここを通るものは皆、その「轟音」を感じ取ることができた。「轟音」に心奪われたまま発狂する者もある。
 だがもちろん、ダツラにとってはいつも通りなれた、おなじみの通路だった。
 何しろ、他の子供たち同様、月に二、三回はそこを歩かされるのだから。
 それも、一人ずつ、朝出発させられる。その日洞窟歩きを免除された子供たちと導師は、出口の河原で待っている。入り組んだ洞窟は岩山の中を穿ち、そしていつしか麓の河原に出るのである。峻険な岩山を登るのでない限り、川伝いにそこへ行くしかなかった。
 ダツラは優秀な脚と勘を持っていたので、たいてい先に出発した子に追い付いてしまう。時にはそのもうひとつ先に入った子にすら追い付き、三人で談笑しながら出てきて、導師を困らせた。洞窟歩きの行は一人でこなす決まりなのだ。しかし、追い付いてしまうものは、仕方がない。洞窟の苦手な子の中には、ダツラが後から来るのを闇の中で待つ者さえいた。
 そんなわけで、最近のダツラはいつも最初に洞窟に入るよう命じられることが多かった。
 しかし今日はどうも違う。他の子は皆、先に河原に行ってしまったらしく、それに、見送りの導師の姿もなかった。見送った後、安全な地上を歩けば、はるかに早く出口の河原にたどり着くことができるのである。
 いぶかしげに辺りを見回すと、ダツラは草をかき分け、入り口に身を躍らせた。
 たん、と軽快に着地し、目を閉じる。頭上には陽光がきらめいている。
 そして、呼吸をはかりながら、一歩、また一歩と歩調を早めていった。ダツラの目が慣れるより早く、闇は濃くなって行った。
 最初の曲がり角でダツラは目を閉じたまま頭を傾げ、正確に岩の突起を避けた。
 それで、自分の心が落ち着いていることをダツラは知った。暗闇は目蓋を通してしみいるほどになった。ダツラはどんどん歩調を早め、遂には闇の中を走り出した。洞窟の上下、登るべきところ、しゃがむべきところ、避けるべき危険な鋭い突起、それら全てをダツラは風のようにかわし、こうもり以上に正確に駆け抜けていった。時には四つ足で、しかしスマートに、ダツラは駆け抜けた。
 山腹に穿たれたその細く、入り組んだ洞窟は、確かに自然に出来たに違いない。だが、何らかの手が加えられた痕跡もいくつか認められる。自然の産物と、それを加工する人間の知恵の、奇妙なキメラだ。

 『本当の闇』をダツラは導師に見せられたことがあった。
 導師の手のひらがダツラの頭を掴んだ。ただそれだけ、何の無理な力も入っていないのに、ダツラは昏倒した! そして、真に、光も温度も匂いもない世界に連れていかれたのだ。
 その時、ダツラは絶叫したが、その声が自分に聞えなかった。

 ここでは聞える。
 すっかり闇に包まれ、光も音も途切れてしまう場所が、ひとつとしてない。
 真の意味での闇など、実際にはないのだ、ということを教えるため導師はそうしたのだった。目で見える世界の中に、本当の闇はない。ダツラは、身体で理解した。心を強く持っている限り、それ光の気配はきっと感じ取ることができるのである。
 必ず、どこからか細い光が射しこんでいる。それを頼りに進むうち、いつしか地底の滝の音が、ガイドの役を取って代わる。それも過ぎる頃、また光が、さらに低く下がっていく急な隘路を照らしだす。あるいは、むき出しの腕に触れる微かな湿った微風が、左右を知らせる。……これは、きっと誰かが計算して配置したのだ、と確信させる見事な出来である。とは言うものの、慣れた者でなければ見逃し、聞き逃してしまいそうな、わずかな手掛かりではあった。
 痩せこけて、眼光だけが鋭くきらめく浅黒い少年、ダツラにとっては、光も音も空気の流れも、全てが彼を導く案内役である。それぞれが違うものとは思えない。
 ダツラはいつも暗闇の中で考えるそれは、いかにも頼りなげに張られた、一本のか細い銀の糸のようなものだ。静まり冷えきった巨大な岩盤の内部に、わずかの裂け目が開いている。道を誤れば、誰も落ちたことのない支道の底に飲み込まれるかも知れない。方向感覚をなくせば、次の子が入ってくるまで、さまよいつづけることになるかもしれない。だから、彼は必死にそれを手繰り寄せようとする、だが、力を入れすぎるとそれはちぎれ、風に吹きさらわれて見えなくなってしまう。
 焦っていることを悟られると、その糸は軽やかにあざ笑うように、どこかに消えてしまうのだ。
 全身を耳に、目にする。この辺りの人間が履くわらじのような(アショールという)ものから足の裏に伝わる岩の冷たさ、頭の周りに感じる物言わぬ岩の迫力、その距離、その重量感を、精密に計り、感じ取る。足元の傾斜、淀んだ空気の滞りがちな、しかし確実に進路を知らせる流れを頬に、しっかりと感じ取る。自分の吐息のリズム、その反射、足元で砂と岩とが立てるわずかな摩擦音が、地底の滝が近いことを知らせている。そのもっとも確かな証拠は、足元の砂の微妙な湿り具合だ。踏みしめる前に、それがどんな音を立てるか、ダツラには判っている。判る限りは、ダツラは止まらない。
『滝は近い』ダツラは思い、足を止めた。
 ここは頭上に大きく、すり鉢を伏せたような大きな高い空間が広がっており、また、闇中を進んできた目には、眩しいほどの陽光が直に差し込む不思議な場所である。ダツラは大きく伸びをして、両手を左右にいっぱいに広げて深呼吸した。薄く垢にまみれたガトゥーンの下から、薄い皮膚と、浮き出した肋骨が透かし見られた。
 それほど、ここは広い。背筋もぴん、と伸ばせる。腰に巻いた蔓をもう一度ぎゅっと締め直す。敏捷そのものといったダツラの少年らしい顔が、一瞬ぴりりと引き締まった。
『今日は、いつもと違って、上』
 いつもはここで、岩の導くままに下に降りていく。そうするとほとんど垂直に近い地下の大穴に出くわす。そこは滝と彼らが呼ぶところで、出所のわからない高いところから落ちてくる水しぶきの大きな音につつまれてしまう。水を巧みに避けて岩から岩へ飛び移るように薄闇の中を降りていくと、ふもとの小さな川のそばにひょっこり出られる。そこで待ち構える導師から、仲間達とともに、今日の『洞窟歩き』についての評価を与えられるのが常である。
 だが、今日は違う。ダツラは昨晩、山頂の満月の下、導師から不思議なことを言い渡されたのである。明日はすり鉢を登れ、と導師は厳かに命じたのだ。
 つまり、ここを登れということだ。
 ダツラは、上を見上げてしばらく両目を瞬いていたが、やがて決然と岩の突端に指をかけた。足の裏がきゅーっと緊張し、汗でアショールが貼り付くのを感じた。
 年下だが、彼よりここでの暮らしが長いプシロシベは、昨夜彼にそっと教えてくれた。その上には、導師が滅多に口にはしない、秘密の岩屋があるのだ。
 ダツラは、そこに招かれた。
 導師は、ダツラを試しているのだ。果たしてダツラの修行がどこまで進んだか、確かめるために。
 陽光が射すとは言っても、やはりそれは、糸よりも細い。彼が岩壁を登り、位置関係がずれるにつれ、どんどんそれは細くなる。光が見える、というより、光の匂いがする、と言うほうが当たっている。むしろ、微かな黴の匂いの方が、強く鼻をつく。
 岩屋の奥に招じいれられたのは初めてだった。プシロシベはこうも教えてくれたそこは、導師が弟子の子供たちと二人だけでお話をする、大切な、大切な場所。
 ダツラは、自身が驚くほどすいすいと登った。
 やがて身を横たえられるほどの棚のような所まで登ってきた。横たえた体から湯気が立ち上るのがはっきりわかる。弾む息が静まるのをダツラはじっと待っていたが、その前に導師の声がした。
「ダツラ、これ、ダツラ。起きておるか」
 導師がいつからそこに居たのか、ダツラにはわからなかった。というより、ここが終点であるとも思っていなかった。すり鉢はさらに上に続いていたし、ダツラは、丁度いい休憩場所だと思って休んでいただけなのである。してみると、反対側の壁を登っていたら、ここには気付かず、ずっと上まで空しく登りつづけていたに違いない。
 ばねがはじけるように、ぴょん、とダツラは起き上がると同時に正座し、
「導師さま、おはようございます」
と合掌しておじぎした。
 いつか聞いた導師の言葉がありありと蘇った。『修行は長い、終わりがいつくるのか、わからなくなるほど』導師はそれを繰り返した末、ぽつりとこう言ったのだ。『だが、それを忘れた時、ふいに、あっけなくそれは終わるのだ』
 ……。
 すり鉢の半分ほども登ったところだろうか。いつも歩く洞窟の中より、ずっと明るい。目を閉じて耳を澄まさなくても、目を開けているだけで、地形がわかる。
 導師は薄汚れたローブのような衣を翻した。いつもと同じように両手を胸の前で合わせ、少年の礼に応えた。
 そうして、皺に覆われた細い眼をぱちくりさせた。
「ダツラや」破顔した導師の長い顔と髭はいつもと変わらないので、ダツラはちょっと安心した。最初の質問もごく平凡なものであった。
「お前がここに来て、何年になるかな」
 返事をする前に、ダツラは少し考えた。
「はい、導師さま。わたしがここに来てから、サイの木の実の祭りが10回、開かれたのを覚えています」
 サイの実は、桃とほとんど同じだが、ちょっと大きい。樹によっては緑がかった実もつけることがある。
「そうそう、ダツラが来た晩は、祭りのまっさかりだった。村人のくれたサイがうまくてうまくて、もっとくれ、もっとくれと、それはそれはうるさかったの」
 導師は楽しそうにまた破顔して、あごを撫でた。
「ということは、もうすぐ10年になるかな」
「はい、導師さま」
「ダツラよ。お前はなかなか、よくがんばった。このままあと何年もすれば、他のどんな子よりも、道を深く極めることができよう」
 合掌したまま深くおじぎをして、ダツラは薄く眼を開けた。身内が熱く震えるような感じがした。
「……だが、おまえは、ここを離れる時が来たらしい」
 我が耳を疑い、ダツラの背筋はびくん、と動いた。
「?」
「ダツラよ。人はみな、運命に掴まれている。これは教えたな」
「はい……。はい。導師さま」
「運命に掴まれるということは、また、運命をしっかり握りかえすということでもある。ダツラは、いい子だから、わしの言うことをよく聞きなさい」
 薄暗い洞窟の中で、ダツラの耳は急にがんがんと血液の流れる音でいっぱいになった。初めて洞窟の中を一人で歩かされた時のように、自分が立っているのか、それとも仰向けにひっくりかえっているのか、闇の中で上下の感覚を失ってしまい、めまいで倒れそうになったいや、もう、倒れているのだ、とダツラは思ったほどだ。
 だが、はっと我にかえると、ダツラはあいかわらず、十本の指をぴたりと合わせ、導師の前で正座したままのようだった。
「明日の朝、おまえはこの村を出て、ひとりでゆきなさい。いいね、ダツラや」
「いやです!」
 声の大きさに自分で驚いてしまったダツラは、また小さく、いやです、と答えた。
 導師はすこし困ったような顔をした。ダツラには見えたのだ。
「まだ、どこに行けとも言うておらんが……」
 いつものように相好を崩す導師だったが、どこかよそよそしい感じをダツラは抱いた。村を出る。それがどういうことかダツラには判っていた。もう二度と帰って来ないということだ。
「ダツラや。そうわがままをいうものではない。わしとても、おまえと別れるのはさみしいし、子供たちみんなも同じことじゃ。だから、今日、直前までわしは言わなかったのだよ。未練がましい心は捨てて、運命を受け入れなさい、ダツラ」
 そう言い残すと、導師はくるりと背を向け、秘密の通路に姿を消した。
 それだけだった。
 ダツラはしばらく黙って座っていたが、ついにこらえきれずに立ち上がると、導師が閉めた岩戸に飛び掛かり、わんわんと大泣きした。いくら押しても、いくら引いても、その岩の大きな扉は動かなかった。一度閉めてしまえば、こちら側からは開くことができないのであろう。
 そのまま、ダツラはいつまでも泣いていた。

§

 川原には、いつものように子供たちが集まっていた。思い思いの場所で腰をおろすどの顔も日焼けしており、機敏でしかも無口な感じを与えた。
 導師が姿を現わしたのは、太陽がほとんど上に来てからだった。
 子供たちは、水のせせらぎに耳を傾け、神妙に導師さまの教えに頭を垂れていた。水の音と導師の声はどこかリズミカルに反響しあい、降り注ぐ陽光は楽しげに水面に踊っていた。
 導師は話が終わるなり、くるりと背を向けて、土手の上の粗末な小屋に戻っていってしまった。
「ねえ、ロフォフォラ。ダツラを知らないか」
 プシロシベは待ちかねたように、傍らの女の子に話し掛けた。
「ダツラは、朝はやく、すり鉢を登ったはずなんだ、ねえ、知らないか。どうしてここに居ないんだ。どうして、導師さまは、何も言わないんだ」
 栗色の髪をさらりとかきあげたロフォフォラは、それを聞いてはっと顔を上げた。身を固くしたまま、プシロシベの眼をじっと見つめ、次の言葉を待ち受けている。あまり大きな輝く目で見つめるものだから、プシロシベの方がたじろぎ、俯いてしまった。濃い褐色のすべすべした肌に、そこだけ大きく白い目と、黒い瞳が開き、その奥に何かおびえたような光が横切るのが透かし見られた。
「プシロシベ何ですって。ダツラが?」
 そう言って、ロフォフォラは頭を激しく振り向かせた。髪飾りにつけた赤いウィードの花が揺れた。
「教えてちょうだい。ダツラが?」
 他の子供たちも聞きつけて、みんなは大騒ぎになった。
「ええっ、ダツラが?」
「ダツラは、あそこを登ったのか?」
 一番年長の、みんなの束ね役になっているメヒカーナが、その輪の中に歩み入り、皆を黙らせると、静かに口を開いた。
「……ダツラは、ここを出ていったわ」
 何で、何で、とみんなはさらに騒いだ。
「すり鉢は、修行の最後、解脱の証しなのよ。ダツラがそこに登ることを許されたのは、つまり、ここで学ぶことを終えたということなの」
 ロフォフォラは、最後まで聞いてはいなかった。
 彼女は、狂ったように泣き叫びながら川原を離れ、導師の小屋に向けて走っていた。
「ダツラは村を出るわ」
 悲しそうに俯いて、メヒカーナは続けた。
「私覚えてるわ、今まで、みんなそうだった。ダツラも、もう、みんなと会うことはないのだわ」
 メヒカーナの抑制の効いた大人びた声が次第に遠ざかり、仲間達のざわめきもそれについていった。何人かが時々、一人取り残されたプシロシベの後ろ姿を振り返ったが、その肩がいかり、拳が握りしめられているのに気付くと、そっとおたがいに目配せして、去っていった。
 まもなく太陽が頂点に達する時刻である。
 彼の足は自然に、仲よしのダツラといつも遊んだ岩陰に向いた。そこは、導師がみなを集める水辺と同じ川沿いの、ずっと下流の方にある。
 ここまで来ると魚を取る村人も、洗濯をするおばさんたちも寄り付いてこない。ごつごつと尖った岩がいっぱいあって、飛び移る足が滑ると、岩の間に落っこちてけがをしてしまうような所だ。背中を日光に焼かれるのを感じながら、プシロシベはぴょん、ぴょん、と軽快に、岩をぬって進んだ。
 飛びすさるように、一ヶ所にとどまらず次から次へとプシロシベは順番にジャンプした。むしろ止まる方が難しいほど、足場は悪い。ときどき、足元から水の流れる音が響き、プシロシベの後を追ってくる。川はここではむき出しの鋭角的な岩の中に隠れてしまい、どこからどこまでが川で、どこまでが地面なのかはっきりしない。
 ぞっとするほど深い、岩の切れ目が見える。底は暗くて見えない。だが、それはプシロシベの目印でもある。
 灰色のざらざらした表面に、黒い粒を浮かせた、不思議な三角形の岩が立ちふさがる。かつてプシロシベはそこで足を踏み外し、岩と岩の間に落っこちて、したたか背中と内腿をすりむいたことがある。血まみれのプシロシベをダツラは背負って、しかもジャンプして帰ったものだ。ここは、止まることなく、力をうまく持続して、綺麗に飛び越さないといけない。
 最後のジャンプを終えると、プシロシベはごろごろした尖った灰色の岩に隠れて、腕で目をぬぐった。
 ここを降りると、広い広い、岩の床がある。飛び降りるには高すぎるので、プシロシベは、左右の壁にテンポよく、たっ、たっ、と交互にジャンプを繰りかえしながら少しずつ下に降りていった。
 いつもなら、ダツラと一緒に来るところだ。
 ダツラは必ず、ここでプシロシベより先に跳んだ。プシロシベはどうしても、手前の固い鋭い灰白色の大きな岩に右足をかけ、そこで一度力をためて、全身をばねにして跳躍し直さねばならないのだが、ダツラの足腰はまるで信じられないほどの距離をひとっ飛びに越してしまうのである。
 ごくまれにロフォフォラが来るときは、やはり女の子なので、いつも後から遅れてきた。岩にしがみつきながら来るので、どうしても遅いのである。
 ちょうど平らな、手ごろな岩に腰掛けると、プシロシベは腰に付けた麻袋の、ほつれた糸を指でほどいてみた。中から、ころりと出てきたのは、この村ではそう珍しくもない、石笛である。しかし、誰のよりも優れた、美しい石笛である。
 それを掌でもてあそびながら足を組み、アショールをほどいてはずした。プシロシベのアショールは、お母さんに編んでもらった特別の厚手のものだったが、それすら貫いて、足の裏の何ヶ所かは傷つき、血が滲んでいる。アショールの蔦が緩み、茎が干からびて、ところどころほつれてきているせいだった。
『そろそろ新しいアショールを作ってもらわなくちゃ』プシロシベは思った。
 ダツラはめったに足をすりむくことがなかった。跳躍しながら、岩のどこに、どんな角度で足をつけ、どの方向に体を弾ませればよいか、直感的にわかるらしかった。ダツラはしかも、自分ひとりだけで、おそろしい魚がうようよする湖に行き、アショウの茎を見つけて、乾かし、繊維を編んでアショールを作ってしまう。ダツラのアショールを、一度見せてもらったことがある。それは、とても薄くて、布を何枚か重ねたぐらいしかなかった。この方が、足のうらのことがよくわかる、とダツラが言っていた。
『ダツラにはやっぱりかなわなかったなぁ』
 プシロシベはそのまましばらく太陽の光を浴びてぼんやりしていたが、やがて石笛を回し始めた。ひゅん、ひゅん、ひゅ、ひゅ、とそれは次第に回転を速めていった。
 濃緑色のしなやかな繊維の先端にはさっきの石笛がついている。その石に開いた空洞が宙を切るとき、えもいわれぬ音色を奏でた。プシロシベは、紐の回転を微妙にコントロールし、あらゆる音を自在に出すことができた。
 ひゅーん、ひゅーん、と遠く響く耳鳴りのような音を奏でることもできたし、きゅ、きゅ、きゅ、と剣先を鏡にこすり付けるような音を出すこともできた。
 石笛は、天からの授かりものだ、という導師の言葉を、ダツラはよくため息まじりにくりかえした。ぼくには授けてもらえない、とうらやましそうによく言っていた。
 この石笛は、ここに二人で初めてきたときに、ぽつんと置かれていたのである。まず、ダツラが手に取って、ふってみた。しかし、全く音がしなかった。次にプシロシベがひゅん、と振ってみた。すると、石笛は急に生命を与えられたように歌い始めた。それを持ち帰ったプシロシベに、導師は言った。それはお前に与えられた石なのだ。お前は、それを守り、歌わせ、天界の音楽を奏でるのだ。
 そのときのダツラのうらやましそうな顔を今でもプシロシベは覚えている。だが、本当は、プシロシベの方がダツラをうらやましく思っていたのだ。ダツラには、別の運命がある。ダツラがいない間に、導師はそっと教えてくれた。ただし、それがどんなものかは教えてくれなかったのだが。
『とうとう、そのときが来たんだなぁ、ダツラ』
 しかし、ダツラの石は、一体どこにあるのだろう。
 ……頭上に人の気配を感じて、プシロシベは紐を、くいっ、と引いて笛を回すのをやめ、左手でぴたっと押さえ、立ち上がった。
「あ、あたしよ、プシロシベ」
 ロフォフォラが、おっかなびっくり、岩の上から顔を出している。やっぱり、来たのだった。
「なーんだ。早く降りてこいよ」
 危なっかしいロフォフォラの降りかたを見るに見かね、下から支えようとしたプシロシベは、きゃっ、と叫んで足を滑らせたロフォフォラを受け止め切れず岩に倒れこんだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 まだ幼いプシロシベは、ロフォフォラよりずっと体も小さく、ひとたまりもなかったが、すぐにぴょん、と立ち上がり、「だいじょぶだいじょぶ」と言った。
 プシロシベはそそくさと石笛を袋にしまい、腰にしっかり結び付けると、また岩に腰かけてアショールを履き始めた。ちらっ、ちらっ、とロフォフォラの様子を伺うが、ロフォフォラは何から話しはじめるか、考えているふうである。
 それにしても、ここは変わった場所だった。プシロシベにとっては自分の一部と言ってもいい石の笛を手に入れた神秘的な場所であるが、それをおいても、とにかく奇妙な場所であった。
 周囲は石灰岩らしき、ざらざらした粉っぽい奇岩がそびえ立ち、この広場を取り囲んでいる。足元は固い固い岩盤になっており、しかし、それを通して水のせせらぎが耳に届く。つまり、この巨大な水平な一枚岩は、川の上を覆う形で、すっぽりかぶさっているのである。プシロシベはいつも思うのだが、ここだけ、種類の違う岩が、円形に並んでいるのはどうもおかしい。かといって、誰か昔の人が並べたとも思えない。それは、あまりにも不格好で、不揃いな岩ばかりだからである。
 ロフォフォラは、そこを遺跡と呼んでいた。
 洞窟のそばにある大昔の寺院や、北の砂漠にあるという石積みの建築だとかと違い、建物らしきものは何もない。ただ、だだっ広い円形の岩盤、周りをすっぽり囲む石灰岩の高い高い柱の群れ、そして、いまプシロシベが腰掛けている石の椅子だけである。それだって、見ようによっては、どこかの石が転げ落ちてここに落ち着いただけのことのようにも思える。
「ダツラの家に行ったの」
「居た?」
 プシロシベの予想通り、返事はなかった。
「お母さんはいたかい?」
「泣いてたわ、全然話もできないの」
 ダツラの母は、ひどく厳しく、癇癪持ちで、そして、ダツラを溺愛していた。年一度、川原の講義に、親達が見学に来る日があったが、それはダツラにとって苦痛らしかった。だからといってダツラは、さぼって休めるような性格ではないのである。母の評判自体、あまりよくなかった。何にでも口を出し、恥知らずなところがあった。ダツラは、それをひどく嫌がり、母の話はしたがらなかった。家にも、あまり友達を呼びたがらなかった。
「きっと、昨夜のうちに荷物をまとめたんだ」
「プシロシベ、ダツラは、どうなってしまうの」
「……」
「導師さまも、何も教えてはくれない。ダツラはどこへ行ったの?」
「……前に導師さまに聞いたことがあるよ、修行を終えた子には二種類あって、石を守る者と、出ていくものとどっちか選ぶんだって」
「ダツラが? 村を出ていくって自分で決めちゃったの?」
「出ていくものは、誰にも言わないで、黙って出ていくん決まりなんだって。それを決めるのは導師さまだよ。ダツラじゃないよ。すり鉢を登った者は出ていくことになるんだ」
「村を出て……どこに?」
 プシロシベにも、やはり想像がつかなかった。『出て』……どこへ行くんだろ?
「村を出る道が、西の山脈にあるんだって。切れ目があるだろう、高くて遠い壁って言われてるあの谷だよ、すり鉢を登れば、あそこに道がつながってるらしいよ」
 次にロフォフォラが口にした言葉は、普段の彼女からは想像もできない力に溢れていた。
「わたしは、ダツラを追うわ」
 プシロシベはびっくりした。ロフォフォラは、いつも絶やさない髪の花飾りをそっとはずしてしまったのである。
「ロフォフォラ、何する気?」
 続いてロフォフォラは背にゆわえつけた石の大弓をほどいた。
「だめだよ。ついていってはいけないよ」
「なぜ?」
「決まりだもん。出ていくものの後を追ってはいけないんだよ」
「もちろん、知っています。しかし、わたしは、ダツラを追うわ」
 慣れない手つきで肩まで伸びた髪を後ろに束ねると、弓をくくってあった紐でそれをぎゅっと縛った。そして、腰の短刀を髪に当てた。
「ロフォフォラ、なにやってんだよ、気は確か?」
 風が広場に吹き込み、ロフォフォラの美しかった髪はばさばさと吹き散らされていった。ロフォフォラはさらに何度かその切れ味の悪い短刀でがしがしと髪をおろし、空を見上げた。
「弓を」
 促されるままに、逆らうこともできず、プシロシベはロフォフォラの弓を拾い、おそるおそる手渡した。その時、プシロシベは、初めて、ロフォフォラの「石の弓」を手にした。自分の石は、めったに人の手に委ねないものである。それは、なにかの禁を犯すような、軽い罪悪感があった。黒曜石だろうか、滑らかにえぐったようないくつもの曲面で構成された、しかし全体としてはきわめて鋭角的な、輝く石の弓だった。
 きーん、きんきん、と石の弓が鳴いた。
 ロフォフォラは、遥か彼方に向けて、弓を引き絞っているのだ。
 その横顔は、決意に満ち、唇の端は、噛み締められていた。急にロフォフォラが大人の女になったような気がして、プシロシベはその不思議に打たれた。
 きん、きん、と音はどんどん高くなり、艶々と黒光りする石の弓は、鉱物とは信じられないほど柔軟にしなり、力を貯え、鳴いた。ロフォフォラはそのまま少しずつ、すらりとした肢体をたわめていき、矢を放った。
 きゅいーん、と石の弓は悲鳴をあげ、ロフォフォラの左手を支点に半回転した。ぺこっとお辞儀をするように弓は下を向き、一方の矢は稲妻のように音もなく空に吸い込まれてしまった。
 プシロシベは、ぺたんと尻餅をついた。
「わたしやプシロシベと違って、ダツラは石を持ってないのよ」
「隠していたのかも知れないよ、自分の石は、あまり見せびらかすものじゃないし」
 違う違う、ロフォフォラは何度も俯いた顔を振った。
「プシロシベ、そうだ、きっと、石がないから、出ていくのよ、そうだわ」
「ああ、そうかも知れない。うん、そうだ、それならわかるよ、どうして村を出されるのか、わかるよ」
「ダツラったら、きっと寂しくて泣いてるに決まってる。プシロシベ、あんたも来るのよ」
「だめだよ。ひとりで行かなくちゃいけないんだ。洞窟と同じだよ。助けちゃいけないんだよ」
「……そう。怖いのね。いいわ」
「そうじゃないよ、でも、お父さんもお母さんもゆるしてくれないよ、きっと」
「もう行かなきゃ。プシロシベ。さようなら」
 ロフォフォラはそう言って、岩をよじ登り始めた。
『どうしよう』
 プシロシベは、自分の話がロフォフォラをこんなに追い詰めたことに、すっかりうろたえてしまった。
『導師さまに、ことの次第を報告しなくちゃ……いや、出ていくものの噂をみだりにしたことがばれると、まずい。かと言って……』
 躊躇するうちに、ロフォフォラはその姿を消した。日はますます高く、やけつくような熱がプシロシベの背を汗でいっぱいにした。

§

 夏の雲は、水しぶきの一瞬のきらめきのように真っ白だ。悪夢に出てくる、とてつもない大男のように威圧的に、東の丘の上にそびえ立っている。
 刻一刻と形を変えるさまは、まるでプシロシベをとがめるべく、その空すらも引きちぎることのできる巨腕を振りおろそうとしているかに見えた。
『おっかない雲だなぁ。いやな予感がするぞ』
 プシロシベは歩調を早めた。草の匂いがむんむんと立ち上る草原の丘は、そう登るに困難なところではない。まして、日頃、ほら穴の修行や、岩だらけの川辺での遊びに精をだすプシロシベにとっては、むしろ平板で単調過ぎて、眠くなりそうだった。
 丘は、こんもりと丸く、やわらかで、少しも激しいところがなかった。表面は丈の低い緑の雑草にそっと覆われており、寝転ぶのにちょうどよかった。だが、暖かい午後の斜面で昼寝するために来たのではない。
 プシロシベの目指すのは頂上だ。
 丘は、まるで地中に埋まった星のほんの一部だけが露出しているかのように、あるいは平たい皿を伏せたかのように、丸かった。実際、村の長老の言い伝えでは、これは金星の双子が落ちてきて埋まっているものだという。
 プシロシベの属する導師さまのグループには目の利くものが居ないのでわからないが、村の別の一派にはものすごく目のいい子供ばかりいっぱい居て、金星も火星も土星も、昼間でも見ることができるという。
『でも、ダツラにかなう子は、ぜったい居ない』
 プシロシベは、ちょっぴり誇らしげにそう思うのだった。
 丘の頂点には、そこだけ黒々とした木々が密生する、小さな林がある。まるで、この東の丘の冠のように、ぽっこりとそこにあるのだ。だからそこをかんむりの林とみんな呼んでいる。本当に小さな林だ。村人を100人ばかり集めてみなで手をつなげば、周りをぐるりと囲める、とプシロシベのお母さんは言っていた。ほんとかどうかは知らない。
 樹木がびっしりと並び、そのわずかな隙間にも下草やら蔓やらがからまり、どんなに天気のいい日でも鬱蒼として見えるさまは、林というより、森だった。けれども、樹木達は自分達の領分を頑なに守り、決してその範囲外には繁殖しようとしないのである。かんむりの林は、冠としての分をわきまえていると言わんばかりに、決してそこからはみ出そうとはしないのだった。
 その林の中には、ズルーという大きな羽虫の巣がある。その中心には、腰袋がいくつあっても入り切らないほどたくさんの、黄色い鱗粉をくれる女王ズルーが鎮座しているのである。プシロシベは、女王ズルーに話を聞きに来たのだプシロシベの石笛は、人間には聞こえない波長の音も自在にコントロールできる。
 まもなく陽が沈む。その前に話を聞かねばならない。
 林は、見上げても上がわからないほど高い樹と大きな葉で築かれた、緑と黒の塔のように見えた。
 いつもそこから林に入るので、そこだけ踏みならされ、草も樹も避けるようにぽっかり口を開けていた。プシロシベは躊躇なく、そこに足を進めた。
 中に入るなり、急に目の前が暗くなり、足元もふわふわとやわらかな緑の草から、ぶよぶよした腐葉土と枯れ葉の堆積に変わった。葉っぱも、肉が厚く、重く湿った感じで、まるで外とは違っている。プシロシベは思うのだが、これはただの林ではなくて、ズルーの巣そのものなのではないだろうか? 生きた巣。植物と昆虫が共生する、不思議な巣。
 樹がごごご、と唸りを発し始めた。
 プシロシベは、歩みを止めた。
 足元がぐぐっと持ち上げられたような気がしたのだ。
 めまいとも、あるいは地震の初期微動とも取れたので、プシロシベはじっと感覚を澄まし、それを見極めようとした。
 間違いなかった。かんむりの林が、動き始めた。心地よい、好意的な律動に沿って、ぶーん、ぶん、ぶーん、ぶん、と林全体が踊り始めたようないつもの感じだ。
『女王ズルーさまが近くにいるぞ?』
 プシロシベは片膝をついて、その律動に身を任せた。そして、自分自身が、すっかりそのリズムに同化するまで、心を静め、楽しませ、調律していった。もうじゅうぶんだ、と感じるまで、プシロシベは振動で倒れないよう慎重に体の向きを変え、あるいは膝を立て、あるいはすっくと立ち上がり、辛抱強く試しつづけた。そして、揺るぎない確信が湧くまで、注意深く自分の心を観察し、待った。
 やがて、右膝をついて、左足は前に伸ばしたまま、左手で太股をぱん、ぱんと小気味よく打つ動作が良い、と確信できたのでプシロシベはそうした。そのリズムは、林の問いかけに反応して自然に湧いてきたものでもあり、同時に、彼から林に対して投げかける独自のリズムでもある。
 足元の枯れ葉が上下に揺れるスピードが、やや早まり、回転運動が加わったようだった。それは心の底からうきうきするような動きだったので、プシロシベはうれしくなり、右足と左足をぱっと入れ替え、また同じ動きを、ちょっと早めて繰り返した。
 林全体が、明らかに遊び、喜んでいるのが感じられた。潮時だ、という感じが強く沸き上がり、彼の左手はごく自然に、腰の袋に伸びた。
 プシロシベは電光石火の勢いで紐を右手にきゅっとつかむと、幻のようにすばやく、それをひゅんひゅんと回し始めた。
 一瞬不意をつかれて、驚いたような雰囲気が辺りに満ちた。だが、それは本当に一瞬のことだった。木々は、急に後ろからいたずらで驚かされた子供のようにちょっとのけぞったあと、笑い始めた。
 プシロシベも笑った。こちらは、本当に声を出して笑った。
 白い霧のようなもやが飛び交い、落日の赤い光の帯びがカクテルのように縦横無尽に彼を取り巻き、踊りだした。樹の枝も、蔓も、葉も、全てが伸縮し、声を合わせて笑っていた。
「女王ズルーさま、こんにちは」
 プシロシベは左膝をついたまま、ひゅんひゅんと回る石笛を頭の上に捧げるようにして、挨拶のポーズをとった。いつもそうだが、女王の姿は見えない。ただ、林の律動の中から、まるで前奏から主旋律に移るように美しい流れにのって、羽の唸りがすこしずつ立ち上がってくるのが感じられるだけである。人々はそれを羽虫だという、だからプシロシベもそう思っているが、それが本当に羽の音なのかは、確かめようがない。ただ、この音と動きの対話のあと、鱗粉をくれるわけだから、やはり虫には違いないのであろう。
 ズルーの絵を、プシロシベは遠い昔に導師の講義で見せられた覚えがある。黄色と黒の奇怪な入り組んだ斑模様に彩られた実り豊かな胴と、不自然なほどくびれた接続部、艶やかに透き通った薄膜のような4枚の羽と、くっきりと流れるように刻印された黒い縁取り、それはまさに昆虫の特徴そのものだった。どこを見ているのかさっぱりわからない複眼だが導師は言った、それこそは悟りの目である、と。その目に射すくめられる資格あるもののみが、その姿を見ることを許されるのだ。
 プシロシベはことの次第を石笛の音色の変化とリズムで、表現した。
「教えてください、追いかけたほうが、いいですか?」
 そうするうち、プシロシベは、今日起こったことの全てが、整然と、本来の位置に収まるような、深い安心感に包まれ始めた。すると、このさき事柄がどう進展するのが正しいかまで、照らしだされるような気がした。
 ダツラと、ロフォフォラの後を、追うべきか?
 伝わる前に、既に女王ズルーには全てがわかっており、それをあとから音で追いかけているような感じがしたということは、うまくいっているということだ。今のプシロシベには、女王ズルーの羽音が応える前に、もうどうすべきか、わかっているような気がした。プシロシベは目を閉じた。その方が気持ち良かったからである。脳裏に、ズルーが映るように思われる。しかも、ズルーは微笑んでいる。ズルーの頭部のどの部分が笑いを示すのか、プシロシベにもわからないが、それを考えようとする心の動きから離れる。ズルーは確かに笑っているに違いない、嘲笑ではなく、いたずらっぽく、無邪気に。
『そうだ、ぼくは、ぼくがどうすればいいか、もう、わかってるぞ』
 プシロシベは、自分が思っているのか、誰かが思っているのかも区別できないまま、ぼんやりと、感じた。最初それは、ぽっと心に浮かんだ雑念のように思えた。だが、それは強められ、強烈で圧倒的な感じに強化され、繰り返され、しまいには、それ自身のリズムにそって拡大し始めた。
『そう。おまえは、もうわかっているじゃないの』
 もう、プシロシベには、それが自分で自分に語りかけているとしか考えられなかった。どこからどこまでが自分で、どこからが他人なのか、そんなことは無意味に思えた。強いられた感じはまったくなく、自分で選んだ、自分で決めた考えなのだ、と強く確信できた。自分はそれをしないこともできるが、しかし、それを選ぶに違いない、という感覚である。
 それで十分だった。
 石笛の回転はすーっと落ち、ついには地面の枯れ葉にかするところまで勢いを落とした。
 プシロシベはぴょこり、と頭を下げた。そして、そこに積み重なった小山のような黄色い鱗粉を袋に納め、一目散に駆け出した。
 林の外は、既に夕暮れだった。紅の日輪がかんむりの林の彼方に没し始めるのを背に、彼は一心に丘を駆け降りた。

§

「……だめだ。ならぬ。ならぬったら、ならぬ」
 背を向けたまま、導師は言った。
 小屋の中は既に暗く、窓を覆うガーシュの葉から星明かりすら透けてくるように感じられる。
 導師に傅く三人の娘達は、うなだれるプシロシベを故意に無視するか、あるいはまったく気にとめていないようである。返事をしてもらえないのは驚くにあたらない。彼女たちはみんな唖なのである。けれども、この村ではそんなこと、どうということはない。字が書けない人もいる。弓をうまく引けない人もいる。それと同じことだ。
 彼女たちのくるくると動く静かな瞳が、長く垂らした髪越しにちらりちらりとプシロシベをやさしく見つめるのがわかる。侍女たちもまた、導師の返答を待っている。突然小屋に来て、ダツラを外に行かせないで、と言い出したプシロシベに、導師が何と答えるのか?
 けれども導師が怒ってはおらず、むしろ困惑しているということは、プシロシベにも理解できた。ただ何に対して困惑しているのか? プシロシベはまだ測りかねていた。
 後ろの腰で組んでいた手を上げ、導師は破顔一笑、こうこぼした。
「いくら頭を下げてもだめじゃ、プシロシベ。厳しいようだが、これが決まりなのだから。『技』の道を学ぶものの、昔からの決まりなんじゃから」
 ちょっと首を傾げて、遠くを見る目で、導師は思案している。
「これだけは教えよう。出ていくもので、帰ってきたものはほとんどおらん。ガシュマルの外には厳しい世界が広がっている。じゃが、帰って来たものも、わずかながらおるぞ。例えば、わしがそうじゃ。わしも、出ていくものだったんじゃぞ」
 それを聞いてプシロシベは安堵でその場にへたりこみそうになった。
「だがな、帰ってきたときには、もう、別の存在に変わっているのだから、二度と帰らない、というのもうそではないな」
 と、導師は謎めいたことを口走ったが、プシロシベは聞いていなかった。ダツラならきっと戻ってくる。そう彼は信じて疑わなかった。プシロシベが怖れていたのは、出ていくものはもう二度と戻ることを許されないのではないか、ということだったのである。ダツラはきっと戻ってくる。少なくとも希望はある。
「理由はな、プシロシベの考えてるとおりじゃ。大体当たりだ、面倒だから全部教えてやろう、ダツラはどういうわけか、自分に合った石を見つけられなかった。洞窟はあんなに賢く歩けるし、頭もいいのに、あやつの見つけてくる石はどれもこれも、力も何もない、つまらない石ばかり。なんでかな?」
 本当にわからなくて困っている様子だった。
「ダツラはいい子じゃし、修行も積んだし、時期も満ちた。じゃが、なぜか、自分の石を見つけられんかった。ダツラの性格が鋭すぎるのかな? どんな感じの石ならいいのか、それさえわからんのじゃから。プシロシベも話は聞いておろう、そういう者は、運命の石を、外に持っているのだと言い伝えられておる。アシュマルの話をしてあげたろう、西方にも、わがガシュマルのような小さな国があり、道を求めて修行を積む。やり方は、およそガシュマルとは違っているがな」
 導師さまは、そこに行ったことがあるとおっしゃっていた……川原での講話で、確かに聞いた、とプシロシベは思い出した。
「昔は、ガシュマルとアシュマルは盛んに行き来していたのじゃ。今は、違う。下界は今、戦乱の真っ只中。プシロシベ、そこでは、人間と人間が闘い、血を流し、殺しあう。しかも、そこを通らねば、アシュマルにはたどり着けんのじゃ。アシュマルは遠いぞ。それに、下界の戦争は、もう何十年も続いとる」
「ダツラは、その旅に出たのですね、ダツラの石は、アシュマルにあるんですね」
 威厳をもって、導師が肯くのをプシロシベは見た。
「あるかどうかは知らんが、きっとあるじゃろ、というだけじゃ。ダツラは、自分の力で西の国、アシュマルまで辿りつかねばならん。それが決まりだから、ダツラを村から追い出すな、と言われても困る。だがお前たちが勝手にダツラを追い、共に旅するつもりなら、それを拒む理由はないな」
 それからしばらく、会話は途切れた。
 やがて、導師は手で侍女達に、何かを合図した。
 それは、単に、席を外してくれというだけではないようだったが、プシロシベにはよくわからない。
 すると三人の娘は一様に肯き、立ち上がった。おのおの、心配そうにプシロシベに目をやると、そっと小屋を出ていった。
 あとには、相変わらず背中を向けたままの導師と、床にひざまづくプシロシベだけが残された。
「難しい話をしてやろう。ガシュマルには『知』と『学』と『武』と『技』の道がある。ガシュマルの子は、みんなどれかを選んで大人になるまで勉強せにゃならん。お前たちはわしのところにいるから、『技』の道で修行しとるんじゃ。これは知ってたか」
「それぐらい、知ってます」プシロシベは口を尖らせた。「ぼくのお父さんもお母さんも、子供の頃は導師さまに教わったって。だからぼくもここに連れてこられたんですよ」
「もっと難しい話をしてやろう。教えには証果というものがある。『武』の子供たちなら、剣とか斧だわな。ありゃ危なっかしくていかん。『学』は、何か、法術を覚えとるようじゃな。しかし理屈っぽくていかん。『知』は、よくわからん。あそこは、歌とか、楽器とか、巻き物とかそういうものじゃな。わしん所は、石じゃ。石ならなんでもよいが、自分に合った石というのは、世界に一つしかない」
「石が見つかっても、ぼくはまだ卒業できませんよ」
「石はただの、証果じゃ。例えば『武』の子供が自分にあった剣を手に入れても、それで終わりじゃなかろう? 剣を操る力を学ぶのだ。ダツラの困った所は、誰から見ても石と語り、見極める力があるはずなのに、肝心の石が見つけられん。言い伝え通りの期間が過ぎた、これは見つけられないんじゃなく、ガシュマルには、あやつの石がない、ということらしい。となったなら、アシュマルへ、行かねばならぬ。他の道と違って、観念としてではなく、実際に旅して行かねばならぬ。石は、言葉ではない。考え方でもない。そこにあるものじゃ」
 膝を揃えて、右手を腰の袋に回し、プシロシベは石笛をぎゅっと掴んだ。
 それは、確かに掌のなかにあった。
「わしが助けることはできぬ。それではダツラの為にならんのじゃ。プシロシベや、そういうわけじゃ」
「導師さま、導師さまも出ていったことがあるんですか。導師さまの石は、アシュマルにあったんですか?」
 プシロシベは叫んだが、導師は最後まで言わせなかった。
「石には、さまざまな側面がある」とフィレモン師は厳かに言った。
「ファン師はわしに語った。知に至る道は、人それ自身のものであって、自分で見つけなければならぬ。ファン師の見つけた知とは、ファン師だけのものだ。それを他人に伝えることはできぬ。石も同じじゃよ、プシロシベ」
 プシロシベは辛抱強く聞いていた。
「石も同じじゃ。石とは、人によって違うものだ。例えば、わしの見つけた石は、死じゃ。石から、死を学んだのだ。そして、石は、証果として、今もこの村にある。だが、わしの石は、わしだけのもので、プシロシベの石笛について何かを教えることはできん。できないのじゃ。わしには、お前の石笛のことはわからんのじゃから」」
 そこまで話してから、とうとう振り返ると、フィレモン師はにっこり笑った。
「ロフォフォラのことじゃが……まったく、ごく普通の真面目な子に限って、ある日突然、とんでもないことをやらかしおる。ロフォフォラのおやじさんが、またわしのところにどなり込んでくるな。今度はプシロシベ、おまえか。まったく困ったものじゃ。ガシュマル村を出て、下界に降りるのは、容易なことではない。それにじゃ、もしも出られたら、さらに酷いことになるじゃろう」
「導師さま。ぼくは、自分の力を、ダツラと一緒に試しに行きたいのです」
「かっかっか、プシロシベや、わしの話を聞くまでは、ただ寂しくて一緒に行きたかっただけじゃったろう。おおかた、ズルーのお告げでも聞いてきたんじゃろうが。鱗粉が光っとるわい」
 腰につけた袋が、薄暗い小屋の中でぽぉーっと燐光を漏らしている。
 すっかり見透かされていたので、プシロシベは頭をぽりぽり掻いた。
「お前はズルーに好かれておる。たいしたものじゃ。しかし、旅先で出会う人や、村は、ズルーと違って、お前には冷たかろう。可哀想じゃが、プシロシベには無理じゃろう。ロフォフォラも同じこと。それでも行くと言うなら、わしゃ、もう止めんぞ。どうせ泣いて帰ってくるだけじゃろうからな」
 プシロシベの瞳に熱いものが浮かび、今にも流れ落ちそうになるのを、導師はじっと見つめた。プシロシベは、それでもじっと我慢しているようだった。
「お母さんはきっと、とめるじゃろ」
「いいえ導師さま、わたしはゆきます。お母さんも事情を説明すれば、きっと許してくれます」
 そう弾むように言い残してプシロシベは飛び出していった。ぴょんぴょんと飛びはねるように出ていったプシロシベを見送ると、導師はまた手で合図した。
 プシロシベが出ていったのとは逆の壁が、すすーっと開いた。
 侍女達が、するすると顔を出した。まず、おっかなびっくりホウが顔だけ出した。続いて、ツウもマウが、上下から細い顎と、きゃしゃな首をのぞかせた。
 三人は、しとやかな足取りで、再び入ってきた。
 先頭に立つホウが礼をしながら扉を支えていると、後ろから埃で薄汚れた木箱を捧げ持つツウとマウが現れた。
「や、皆、ごくろうであった。見つかったようじゃな」
 ツウとマウは注意深く木箱に積もった埃を払い、床に置いて下がり、また正座した。
「ホウ、ツウ、マウよ。お前たちはこれから、すり鉢に先回りするのだ」
 娘たち三人は、大きな茶色い瞳を、くるくるときらめかせ、小さな口を固く閉ざしたままである。
「ダツラ、プシロシベ、そしてロフォフォラを、無事、村から送り出すのだ。そして、これを渡してやりなさい」
 導師は木箱からいくつかの小物を取り出すと、一個ずつ布袋に入れた。
「これは、わしが旅したときに使った小道具類じゃ。『技』の道は、物から力を得る。人に優しく語りかけ、励ましてくれる『物』があるのだ……ちと古いものばかりじゃが……ないよりましじゃろ。後は、連中の知恵を絞ってもらおう」
 そして、紐で、ぎゅっと固く口を縛った。
「ダツラはもう、どうしようもない甘ったれで、また一人で泣いてるに決まっておる。そこへ、プシロシベとロフォフォラが合流してみろ、大泣き虫大会じゃぞ」
 三人は微笑んだ。
「わしがこれを渡したことを、悟られないようにな。形としては、ダツラは、石を見つけられず『出ていくもの』。聞こえはいいが、要するに村を追放になる身だ。また、プシロシベとロフォフォラに至っては、無断で村を出る、脱走者じゃ」
 ホウが髪をせわしなく掻きあげて、何か訴えるように導師を見上げたが、導師は手を振って、わかっとる、わかっとる、と笑うだけだった。

§

 擦りむけた手の皮を舐めながら、ダツラは再び歩き始めた。
 ……母は、ただ顔を被って泣き叫び、あろうことか導師さまを罵倒するがごとき,おそれ多い言葉すら吐いた。もう二度とこの人に会うこともあるまい、とダツラは醒めた目で考えた。「女」のいやな部分を、この人はすべて持っていた。
 ぐずぐずすれば、話を聞き付けたプシロシベやロフォフォラがやってくるに違いない。それを心の底でダツラは望んでいたが、待つ時間はなかった。
 ……。
 高くて遠い壁に、ダツラはやって来た。
 辺りは次第に暗くなる。それは、日暮れということもあるが、それ以上に、高い高い岩の障壁が前にたちふさがるからであろう。
 アショール越しに感じ取る岩の冷たさがいやまし、風はダツラの浅黒い頬をしたたか打った。薄く墨の溶けこんだ水が染みいるように、風景は次第にその色彩を失っていき、ダツラの脳裏に浮かぶ追憶と区別がつかないものとなった。それでもダツラは歩きつづけた。どこに向かって?
 今は自分の足音しか聞こえない。思いっきり泣いていいのだとダツラは思ったが、歩調はさらに力強くテンポを上げ、どうしても涙が出ない。間もなく村のはずれに着く。泣くなら今のうちである。だが、泣けない。
『戻れば、戻れるのだ』
 自分に言い聞かせ、努めて胸を張ろうとするダツラだった。
『けれども、ぼくは、導師さまの言いつけを守り、村を出ていく。でも、いつでも戻ってこれるんだ』
 砂交じりの風はダツラの細い目にも飛び込んできて、帰れ帰れと急き立てた。その痛みで、かえって言いわけができた。ダツラは、おもいっきり、しゃくりあげた。
『プシロシベ! ロフォフォラ! ぼくは、ひとりで『外』に行くのはいやだ』
 はずれに来たようだった。そこには、小さな石塔が建てられており、組まれた石の高さはダツラと同じぐらいだった。
 黒ずんだその小さな石組みは、しかし精密に組み合わされ、石と石はまるで最初から一体であったかのようにぴっちりと噛み合っていた。四角い小さな墓標のようなその石組みに近寄り、ダツラはその隙間に目を近づけてみた。表面の粒々をよく観察してみると、やはり別の石を組んだものだ。ただ単に線を刻みこんで石組みに見せかけたのとは違う。
『なにか文字がある』
 それは、「運命を掴むなら、まず石を掴みなさい」という意味に取れた。そして、署名があった。
『フィレモン……? これは、導師さまの名前だ』
 びっくりしたダツラは石塔の裏にも回ってみた。果たしてそこには、羽をはやした導師さまの姿が、細密で均一な、しかし力強く簡明な線で刻み付けられていた。
『導師さま! これは、導師さまの墓標だ』
 導師さまの名は、口にして呼んではいけない名である。でも、プシロシベにこっそり教わってダツラは知っていた。実は、子供達はみんな知っている。でも、それは口にしてはいけないのである。ダツラも、導師さまから正式に教えられたことはついぞない。
 ただ、他の道の導師さま同士、例えばフィレモン師と仲良しのファン師さまには、「やぁダツラくん。フィレモンはどうしとるかね」などと、気さくな調子で尋ねられたりした。だが、そんな時ダツラは、「わたしの導師さまは」とか、時には大人ぶって「わが導師は」などと言葉を慎重に選ぶのである。
 導師の名前を、文字として書いたり、石に刻み付けるというのは、よほど重大な時に限られる。
 羽が生えた線刻もショックだった。
 導師さまには、本当は羽がはえているというのは、子供達のあいだでは公然の秘密だった。ふだんは見えないが、でも、大きな羽があって、時々夜中に空を飛んだり、月まで行ったりするんだと、メヒカーナも言っていた。メヒカーナはそれを、おかあさんから教わったのよと言っていた。
 しかし、それは、人前で言ってはいけない、内緒の話なのだ。
 それが、この石塔にはしっかりと刻み付けられている。しかも、導師の名前入りで。
 ダツラは、大変なものを見てしまったと思い、膝が、がくがくした。
『ぼくは、もう村には戻れない』
 少年の直感が、そう教えた。
『だからこそ、こんな大変なところにぼくは出されたのだ』
 急に風が強くなったように感じ、ダツラは顔を上げ、正面を見据えた。そして、あっ、と小さく叫んだ。
 立ちこめる霧のような、雲の海が、一ヶ所、切れているのだ。
 めくるめくほど広い世界が眼下に横たわっていた。蒼い山脈が横たわり、薄く被さった靄が層をなして重なるさまがダツラの足元にあった。
『こんな広い世界に、ぼくは降りていくのだろうか?』
 ダツラは知らなかった。彼の住んでいた村は、高い高い岩山の麓にあると思っていたのだが、実は本当の麓はもっと低いところにあったのだ。ダツラは、今までこんな高いところで暮らしていたのだ。
『こんなところ、どうやって降りていくんだ?』
 自問するダツラだった。急に霧が吹き払われ、あたりは澄み切った。彼の行く手には、そこでちょん切れたように終わっている道と、目の眩むような断崖が恐ろしげに口を開いていた。
 右も左も、まるで空中に突き出した岬のように、せりだしており、下には何の支えもなかった。おそるおそる身を乗り出したダツラの足元で小石がぱらっと崩れ中に吸い込まれていったが、その反響は全くなかった。
『導師さま。導師さまはぼくに何をさせようというのでしょう?』
 ダツラの修行は、洞窟を歩き、感覚を澄ませ、川原で目を閉じ、導師の教えに耳を傾け、石を見つけ、磨き、鍛え、そしてまた別れる……そのくり返しであった。夜は皆で食事の用意をした。朝は日の出と共に起きた。
 それに疑問を抱いたことはなかった。疑問とは何なのか、ダツラはそもそも知らなかった。だが、これからは、どうすればいいのか、ダツラの心は千々に乱れた。
 陽は既に落ち、暗い断崖と絶壁からは絶間なく細く生ぬるい風が吹き上げてきた。
 遥か下方に、幾つかの村や街が垣間見えた。
 話には聞いている。
 この風こそは「人間の生活」が醸し出す、鼻持ちならないほど叙情的で甘ったるい、無明の匂いに違いなかった。
 導師や、村の人から伝え聞いたことがあるだけの、ガシュマルとは違う人々の「生活」がそこに広がっているはずだった。そこでは人々が、やかましく、せかせかと、食事をし、働き、恋をし、憎みあい、戦い、殺しあっている。大きな機械を使い、奴隷を使い、建築し、造成し、耕し、そして破壊している。
 対するダツラには、腰の袋にいっぱいに詰めたシイの種、そして腰紐に括りつけた小さな手製の短刀しかなかった。
 ダツラにはそれ以外に、本当になにもなかった。