最初で最後の捨て身の戦い

3 最初の戦い



 うーん? 
 夢か、それとも現実か? イッツァはぼんやりと考えた。
 頭の芯に煮え立った湯を流し込まれたように、気分が悪い。腕も脚も、腫れ上がってパンパンになった感じがする。
 ぎくん、と体を痙攣させ、イッツァは起き上がった。手で周りをさすると、草むらに、自分の寝ていた体温が残されていた。
 名も知らぬ小鳥のさえずりが、木漏れ陽と共に、イッツァの汗にまみれた額を舞った。 これが、森というものなのであろう。
 草はやや深く、ふわふわと彼の背を支えた。冷たい土のひんやりした湿りと、草がしっとりとたくわえた夜露は、火照った肌に心地好い安らぎを与えた。
 そして、樹。ここには、数知れぬ程の樹が生い茂り、ぎらぎらした黄色い太陽光を遮り、何か蒼い風のそよぎののうなものに変えて、少しずつ、ぽろり、ぽろりと地上に伝えていた。
 ガシュマルとは違う。こんなに植物が生き生きと緑色に輝き、降り注ぐ熱い光を受け止めて喜びをあげる場所は、見たことがない。ガシュマルはどこでも、植物までが孤独で、冷たく吹き渡る砂塵交じりの風に打たれていた。
 頬をぱち、ぱち、と両手で打ち、肩をぐいぐい揺すって筋肉をほぐすと、イッツァはゆっくりと立ち上がった。樹の根元に立てかけた刀もまた、夢見ながらひとときの休息をしていたのであろう、柄に冷たい水気があった。アショウの細い繊維を精密に巻いたその柄は、グワジン師の元で修行しながら、少しずつ、巻きたしていったものである。アショウを鉱物の粉に浸して着色してある。青い糸、赤茶けた糸、黄色い糸、色々巻いてある。
 イッツァが成長して掌が大きくなるのに合わせて、糸は巻きたされていった。アショウの細い糸は、彼の手の汗で固く締まり、ほどこうにもほどけなくなった。今では、最初の2倍近い太さがある。どんなに素早く激しい剣舞を行っても、その柄は全く揺らぐことなく、イッツァの腕の力を切っ先にまで無駄なく伝えた。
『この剣は』鞘から抜かずに剣を顔の前にかざして、イッツァは目を細めた。『自分がどこに居ようと、いつも同じ感触と、重みと、頼もしさがある』
 軽く振り回してから、また腰に括り付けた。
 太陽が、生い茂る毒々しいほどの緑に遮られてしまってよく見えない。だが、まだ、夜明けからそれ程過ぎていないだろうと直感的にイッツァは判断した。
『小鳥の歌。あれは、朝の歌だろう。ガシュマルでも、下界でも、同じだ』
 陽射しはかなり強い。夏の朝なのだろう。空気は淀んで熱い。
 風がないので、葉ずれの音も今はしない。植物達が振動を吸収している。
『もう一日過ぎてしまった。パロオミは? 他にも居るという仲間は? なにより、ダツラという男は? ……しかし、自分一人で行かねばなるまい』
 森を抜けると、また大きな森がある。樹の形が違う、忌まわしい感じの暗い森だ。場所は既に、当たりをつけていた。
 そこに、黒い鳥の飛び立つ、クオ・クーの飛行部隊駐屯地がある。

§

 進むほどに、森は深くなり足元が薄暗くなっていった。一足毎にイッツァのアショールはぐずぐずと腐葉土に埋まり、ついには、膝まで飲み込まれた。
 ちょっと体を止めて、イッツァは耳を澄ませ、目を閉じた。
 地を這う一陣の風が、イッツァの行く手を急に遮った。それは、草のざわめきが左から右へ遷移していくさまとして、認識された。
「……」
 イッツァは、腰の鞘をそのままに、柄を引き抜いた。
 白銀の輝きが、薄闇に閃いた。
 渦を巻くように、木々を巧みにすり抜けるように、敏捷な一団がイッツァを取り囲んだようだ。
 鋭い叫びが、黒い獣のように飛び掛かってきたが、イッツァはそれを避けず、ただ両手で構えた刀をなぎ払った。
 裂帛の気合と共に、イッツァの足元には切断された右腕がばさりと落ちた。
 どうやら、4人いるらしい。イッツァは確かに、手応えを感じた。飛び掛かってきた一人の右腕を、肘から切断しただが、動揺したのはイッツァの方だった。
『何だ? どういう事だ?』
 びくり、と肩に力が入り、呼吸が乱れた。
『なぜだ?』
 前後左右を取り囲まれたのがわかる。
 しかも、笑っているようだ。下品な、嘲るような、卑しい笑いだ。
『なぜ』イッツァは恐怖した。『なぜ、痛みが感じられないのだ』
 斬られた相手の心が、一向に震えていない。イッツァは感じ取った。
『こいつらは、まるで応えていないぞ』
「おうおう、あんちゃんよぉ」
 けけけ、けっけけと、涎をすする小汚い音が背後に二つ聞こえる。気配はあと二つある。警戒が感じられない。無防備そのものだ。
『腕を斬ったんだぞ。なぜ呼吸が、心が、乱れないのだ』
 剣の達人のそれではない。乱れない……いや、最初から、整っていない。まるで酒でも飲んでいるような。
『これはまずいぞ』
 刀をちゃらりと回転させ、足元の草をイッツァは薙いだ。ばらばらと草きれが宙に舞い、前方の二人の間にイッツァは飛び込んだ。
「ひぇひぇひぇ、甘ぇんだよぉ」
 毛むくじゃらの大男が、ふん、とイッツァを押さえこもうとした。イッツァは手首を返し、逆手に構えた剣をやぁっ、と男の喉仏に突き立てた。
「ふんっ、ふんっ」と男は呻いている。
 返り血がイッツァの目に入った。
 ぴしゅ、ぴしゅ、と噴出する鮮血は、確かに頚動脈からのものだ。間髪を入れずに剣を捻って頚骨を折り、剣を引き抜こうとした。
「!」
 だが抜けなかった。
 背中から草むらに倒れこんだイッツァは恐るべきものを見た。
 首が横にひん曲がって、ぷしゅーっ、と血を噴き出している。
 にもかかわらず、男は笑っているのだ。そして、自分の首に刺さった刀身を素手で掴み、自分で捻っている。大きな掌の中では、イッツァの刀はまるで針のように細く小さく見える。掌も指も、動きにつれて裂け、切れ、どろどろと血が滲んでいる。
「うらぁっ、なめんじゃねぇガキがぁ」
 後頭部に鈍い衝撃を感じ、イッツァは直立した。
「がっ!」
 背後から、何か重い鈍器で、殴られたようだ。しかし、それは、素手だった。
「おらっ、ぶち殺すぞこらぁ」
 残りの三人がイッツァに飛び掛かり、押さえこんだ。
「ぎゃぁぁーっ」
 右腕がねじ上げられ、肩の関節を外されたのだった。
「俺さまの大事な腕を斬るたぁ、とんでもねぇ小僧よ、ああ?」
 地面に押さえつけられた頭が、がん、と脚で蹴られた。
 イッツァに首を斬られた男は、さすがに倒れたようだが、腕をなくした男はまだ元気である。どういう事だ? 口の中に鉄の味を感じながら、イッツァは自問した。
「へぇへぇっ、へっ、苦しいか、おら、ただじゃ殺さねぇぞ、うら」
 押さえつけられたまま草きれを鼻に吸い込んで、むせるイッツァは、首をぐいっと、持ち上げられた。
「わぁっ、」わめく口を押さえられた。
 一人がイッツァに馬乗りになって、腹這いに押さえつけられている。
 残りの一人は、ふん、ふーん、と鼻歌を唄いながら小刀を弄び、イッツァの背を切り刻み始めた。もう一人は、石をかちかちとすり、イッツァの太股に火をつけようとしている。
「やめろーっ、あーっ、あーっ」
「兄弟よう、まだ我慢しろよぉ、すぐ殺しちゃつまんねぇからよぉ」
 喉に熱い血の塊が詰まったので、イッツァは必死にもがいた。
「まず、その目だ。ほれ」
 太い汚い指が、イッツァの右目に突き立てられた。
「ぎゃぁぁぁ」
 後頭部は、がっしりと押さえられている。そのまま、けけけ、と笑いながら、背中の男はイッツァの右目をえぐりだしている。
「わぁっ、ぎゃぁぁあ」
 信じられないほど深く、イッツァの右目は、三本の指で深々と潰され、つままれ、引き出された。
「けけっ、潰れちまったぜぇ、水っぽいのぉ」
 ぴちょり、ぐちょり、と指の中で、自分のえぐられた目玉が弄ばれている。
 イッツァは絶叫した。
 ずるずるっと、神経の糸のようなものが、引きずり出されれるのがわかり、イッツァは必死に身もだえした。
『目が! 目が!』
 さらに、えぐられた眼窩に、人差し指がぐりぐりと押し込まれた。脳までえぐられると恐怖したイッツァは、首が折れるほど頭を後退させ、避けようとした。が、またがつん、と殴打されて意識が薄れた。
『刀……目……こいつらの腕……』
「ほれっ、ほれっ」
 血が溢れて、無事な左目までが、見えなくなった。体は押さえつけられ、左足の指が、二本、三本、と折られている。
 ……。

 稲妻のように何かが迫ってきたのを、かすかに、イッツァは感じた。
 ぐっ、と小さな呻きが聞こえて、背中が軽くなった。
 ぱしっ、ぱしっ、と二つの音がして、手と脚を押さえこんでいる二人も倒れた。
 あまりに素早いので、イッツァはしばらく、身を固くしてうずくまったままだった。
 それから、おそるおそる耳を澄まし、膝で立ち上がった。
『ダツラ……?』
 にゅるにゅると熱い滴の溢れる自分の顔を覆いながら、イッツァは、よろよろと立ち上がろうとした。
 その、逞ましい肩が震えているのを見て、相手は躊躇しているようだった。
「誰だ? 君は誰だ?」
 それについての返事はなかった。
「目を潰されたんだ、見えないんだ、君は、誰だ」
 言いつつ、イッツァはまだ見ぬその影を、ダツラであると信じた。
 首筋に伝う生暖かい血液を乱暴に拭ったイッツァは、自分が刀を捜しているのだと、しばらく気付かなかった。
 気付いたのは、その相手が、左手を取り、柄を握らせてくれたからである。反射的に、イッツァは、相手を掴みかえしていた。
 それは、ぎょっとするほど細い手首だった。威圧感は全く感じない。
 だが、動きは鋭く切り裂くように敏捷だった。イッツァが一瞬力を緩めるのを読んでいたかのように、相手はさっと身を翻して跳びすさった。
「ダツラ……じゃないのか? まだ会ったことはないけど」
 相手は警戒しているようだ。黙っている。
 イッツァは、一歩踏み出そうとして、どう、と倒れてしまった。
 細い頼りない腕が、自分を抱えあげ、どこかに引きずっていくのは、わかった。だが、それをどこか遠くの出来事にように感じるイッツァだった。

§

「わぁっ」
 足元がずるりと吸い込まれたプシロシベは、とっさにクレクレパトラの幼い足首に掴まった。ちりりん、と音を立てて錫杖が草むらの上に放り出された。
「きゃ」という小さな叫びが、腐葉土の中に埋まり、ずっと底で、じゃぼーん、という水の音が響いた。
 パロオミとロフォフォラは歩みを止め、目を見合わせた。
「何だ、どうしたっていうんだ?」
「プシロシベが、落ちたのよっ」
「どこに」
「ここよっ、パトラも一緒だわ」
 ぱっと身を伏せ、パロオミは耳を草に当てた。四人が歩いている森は、樹もまばらで、足元は全て、柔らかい、腐りかけた草の堆積である。
 ふわふわと揺れるほど柔らかい足元に腹這いになって、パロオミは何かを探っているようだった。
「ここに……」ぶくぶくした背中を、ぽりぽりと掻いてパロオミは言った。「地面の下に何かあるぞ?」
 放り出された錫杖を、ロフォフォラは拾い上げ、茶色い草切れを払い落とした。
 それは、クレクレパトラの大切な道具の筈である。蒼錆びの浮いた、古風な青銅か何か?で造られた、祭事用の道具らしい。ただ、一ヶ所、金色に輝いている。それは、先端である。
 先端に、目を射るような鋭いきらめきを放つ金色の鈴が、三つ、取り付けられているのだった。古雅な青黒い不思議な金属のあしらわれた錫杖は、ロフォフォラがいくら振っても、全く鳴らなかった。
「ねぇパロオミ、二人はどこに行ったの。まさか、クオ・クーにさらわれたんじゃ」喋りつづけるロフォフォラを、パロオミはやや邪険に、しっ、と制した。
「聴こえないのかい? この音が……」
 その時初めて気付いたが、パロオミは驚くほど大きな、しかも尖った耳をしていた。ロフォフォラは聞いていた『知』の道を学ぶ子は、音楽に優れ、視力に優れておりだが、本当の能力は何なのだろうか? 背中に何かを背負っているようだ。あれが、もしかしたら、楽器なのだろうか?
『おーい、助けてよぉ』と繰り返す声に、はっと我に返るまで、しばらくロフォフォラは考えに夢中になっていたようである。地面の下から、プシロシベの声がする。
「この下だ。川があるぜ」と言って、パロオミはぴょん、と飛び上がってみせた。
「なにやってんの? 早く真似しろよ」
 がさり、がさり、と腐葉土の堆積の上で飛び跳ねていたパロオミは、やがて、すっぽん、と軽い音を立てて地面に吸い込まれて消えた。
「ちょっと、いやね、こんな腐った葉っぱの中に、埋まりたくないわよぉ」
 しかし、錫杖を忘れんな! というパロオミの声が返ってくるだけである。
「一体どうなってんの。この下に、川があるですって?」
 早く来い、早く来い、と呼ぶ声は、次第に遠ざかるように小さくなる。ロフォフォラは、パトラの錫杖を逆手に掴むと、えいっ、と地面に突き刺したと、ずぼり、と足元が揺らぎ、ロフォフォラもまた、腐葉土の山に吸い込まれて落ちた。
 ……。
 視界は、暗い。まず聞こえたのは水の音である。さらさらと、流れている。
 次に水面に踊る微かな影のような揺らめきが目に入った。
『洞窟……?』
 ロフォフォラはその長いまつげをせわしなく動かした。
「遅いな」とパロオミが嘲笑まじりに呟くのが聞こえる。
「判ったかい。上は、葉っぱが積み重なって塞がってるだけさ。ここが本当の地面だ。ここは川が流れているんで、空洞になっているらしい」
 パトラが傍に立っている。小さなクレクレパトラは、この埋もれた川原で立ち上がっても、頭がすれすれぐらいだった。
「パトラ。これ」ロフォフォラの渡す錫杖の重みに、パトラの掌はびくりと反応した。
「あ。ありがとうございます」
 パトラが頬を赤らめるのが判った。また、この薄闇で、ロフォフォラの位置を正確に掴めないことも、判った。ロフォフォラには見える。彼女も、プシロシベも、洞窟で修行する『技』の子だからだ。
 普段とりすまして冷静なクレクレパトラが、こんなにびくびくしているのを見たのは初めてだった。ロフォフォラは、パトラに愛しさを感じた。もしもロフォフォラに妹が居たら、こんな妹が居たら、どんなに可愛がってあげるだろう。
 少し先に進んだプシロシベが、笛を鳴らして呼んでいる。
「やっぱりな。このまま進むぞ」パロオミは這いつくばって進み始めたが、じゃぽん、じゃぽん、と何度も水に落ちそうになった。
「この小川は、きっと、どこかに抜けるに違いありません。私も、このまま進むのがいいと思います」
「ええ、浅いから、落ちるとちょっと冷たいけど、溺れることはないわ。」
 一行は草の堆積の放つ腐臭と、ささやかな水の流れが運ぶ空気の動きを辿って、ずりずりと前進していった。
 かなり先まで行ったのだろう、プシロシベの石笛の音色は、最初微かにしか聞こえなかった。
「見て。明るくなってきたわ」
 ロフォフォラは手足の動きを早めた。
「もうすぐ、地上に出るわ」
「だから、ここも地上だって言ってるだろ」と、パロオミが変に意地を張った。

 そこで、埋もれた川はついに陽の当たる場所にまで達していた。次第に低くなる堆積にパトラはしゃがみ、膝をつき、さらに背をかがめて這いながら進み、とうとう葉の堆積に頭から突っ込んだと思ったら、急に辺りが明るくなった。
「水脈を辿るというのはいい方法だ」パロオミが既に立ち上がって背伸びしていた。
「暗闇をごそごそ歩くのは性に合わないんだが、黒い森に近づいているのは確かだ」
「なぜわかるの?」プシロシベが尋ねた。
「遠い壁から降りて来るとき見なかったのか? 黒い鳥の飛び立つ辺りには、確かに湖あったぞ。川を辿れば、いつか到着できる」
 突然、前方で、黒い影がさっと跳びすさった。
「あっ」とクレクレパトラが、一本の樹を指差した。何か素早い影が、樹から樹へ跳び移るのが見えたのだ。
 しかし、続いてパロオミがあげた叫びに他の二人は気を取られ、その影には気付かなかったようだった。
 森の中を流れる、清らかな小川のほとりに、血だらけのイッツァは気を失っていた。
 最初に駆け寄ったのはパロオミだった。
「一体どうしたんだイッツァ」
 肩をつかむパロオミに、イッツァはただ頭を振るだけである。顔を押える両手から、べとべとと粘る赤黒い血液が糸を引いている。ぐぅー、と小さく呻くだけで、立ち上がろうとさえしない。
「何があったんだイッツァ! クオ・クーか」
 小さく首を縦に振るのを見て、パロオミとプシロシベはさっと背を合わせて周囲を抜目なく見渡した。
 川が土を洗い流し、段差が出来て、くぼんだ地形になっている。
 樹がややまばらになり、草生えが少し傾斜して、土が露出したくぼみに5人は固まって隠れる恰好になった。
パトラは、感じ取っていた。今、確かにそこに誰か居たのだ。
『誰でしょう』幼い掌を、耳にあてがい、パトラは瞳をぱちくりさせた。
『油断のない人。けれども、この川から誰か出て来るとは思ってなかったみたい』
 たぶん、ぎりぎりまで、誰かが出て来るぎりぎりまで、ここに居て何かをしていたに違いない。パトラは恐る恐る、イッツァに近付いた。
 イッツァは血まみれだ。
『手当をして居たのだわ』パトラは思った。
「パトラ! 手当だ、手伝ってくれ」
 プシロシベに言われるまでもなく、パトラは錫杖をぐりっと柔らかい土に突きたて、空いた両手でラシャンバの裾を引きちぎっていた。さらさらと絹の擦れる音をなびかせる間もなく、パトラはそれをイッツァの手の上から当てがった。
「んがっ」と喚いて、イッツァはそれを払いのけようとした。無事な左目がきらりと光った。びくりとしてパトラは身を引いた。
「脅えてる場合じゃないよ。貸してっ」プシロシベはその絹を引ったくり、両端を捩った。
 パロオミも手を貸し、右目だ、右だけだ、と繰り返し言い聞かせ、イッツァの頭を容赦なく引き上げた。プシロシベは川の水をぺろっとなめ、大丈夫、と合図した。
「イッツァ、我慢しろっ」
 パロオミは太い腕で俯せのイッツァを引き上げたかと思うと、川に頭をじゃばりと突っ込んだ。それを何度か行った。
「洗わないとだめなんだ。クオ・クーは毒を使うぞ」
 元より、イッツァは抵抗しなかった。むしろ、見守るロフォフォラとクレクレパトラの方が耐え切れなかった。びくん、びくん、と電気でも流されたように痙攣する筋肉が、悲鳴を押し殺していた。

§

 静かな夕暮れが来たようだった。倒れたイッツァとそれを守る4人は怠りなく川の周囲に目を光らせ、木陰に潜む影に脅え、森を横切る獣に身がまえ、一日過ごしたが、どうやら襲撃はなかった。
 ここには水もあり、比較的周囲からくぼんでいる地形でもあり、迎撃には都合がいいように思われた。しかしパロオミはその提案を言下に否定した。
「こんな危ない所はないさ」
 ごそごそと袋から煙草を取り出すと、パロオミは見たこともない小さな道具で火を点けた。
「森に潜むのが一番だ。ここじゃ、居場所を知らせるようなもんだぜ。……でも仕方ないな。イッツァを動かすわけにはいかねえ」
 煙草の煙が焼けた雲に向かってのろしのように立ちのぼったのをプシロシベは咎めた。が、パロオミは平然として、これで見付かるぐらいなら、もうとっくにやられてるよ、と冷やかに答えた。
 やがて意識を取り戻したイッツァは、さやを真っすぐに立てて抱くようにあぐらをかいて座り込んだ。パロオミ以外の3人が名乗り、挨拶をした。イッツァは顔を伏せ、黙って頷いて聞いて居たが、やがて、ダツラは居ないのかと一言尋ねた。
 ロフォフォラとプシロシベが身を乗り出すのが、イッツァにも判った。
「……敵は4人居た。自分はこの剣で一人を斬った。ところが」
 それきり、イッツァはしばらく言葉を切った。
「なるほどね。けっ、『武』の達人イッツァの豪刀も、クオ・クーには形無しか」
「パロオミ! ひどいじゃないか」プシロシベはたしなめた。
「本当の事を言って何が悪い。俺達は遊びに来たんじゃねえんだ。もっとも、お前さんのわけの判らない笛よりゃ、頼りになるがな」
「何をっ」とつかみ掛かるプシロシベを、ロフォフォラが押えた。
「あなた。ずいぶんと自信ありげね。でも、あなたこそ、何の武器をもっているの」
「俺かい? 俺の得物は……」背中の包みに手を掛け、パロオミはにやっと笑った。
「おっと。それより、イッツァの話を聞こうじゃないか。誰か、助けが来たんだな。誰だ? 誰だったんだ、イッツァ?」
 話を聞いていたクレクレパトラは内心舌を巻いた。この人も、気付いていたのだ。もう一人、誰か居たことを。
 パロオミはだらしなくあごを上げて、ぷーっと煙りを空に向けて吹き上げた。パロオミはもう、煙草を吸っていい年なのである。
「どうやら、ここまでだ、と観念した時、誰かがあっと言う間に、敵を薙ぎ倒した。音もしなかった。自分はすごく怖かった。こんな奴に襲われたら、襲われたことさえ気付かなかったろう。そして、自分の刀を拾って、手渡してくれた」
「そして、ここまで引きずって来てくれた、と」ぶはぶはと煙を吐き散らすパロオミは、言葉さえ煙たかった。
「そいつがダツラなのかい。どうだイッツァ」
「……判らない。自分が話し掛けても、一言も答えてくれなかった」
「ダツラさ、ダツラに決まっているよ!」
 気色ばむプシロシベを、パロオミは嘲るように手で振り払った。
「威勢がいいじゃないか。しかし、判らないねえ。味方なんだろ。どうして名乗らないんだ」
 ダツラは、照れ屋なのよ、というロフォフォラの答えは、パロオミを大いに笑わせた。ひとしきり、腹を抱えて転げ回った末、んなばかな、と締めくくった。
 クレクレパトラは立ち上がって言った。
「でも、ダツラさんは、私達が追っていることを知らないのでしょう」
 パロオミも笑うのを止め、考えた。
「ダツラさんは、私達を知らないのではないですか」
 それもそうだ、とパロオミが頷いた。
「そりゃそうだ。だって、俺達もダツラって奴を見たことないもんな」
「どうやって見付ける気?」せせら笑うように、腕組みをしたロフォフォラが言い放った。
「そのために、おまえら足手まといを連れて来たんじゃねぇか」
 ふん、とプシロシベはそっぽを向いた。イッツァが重々しく口を開いた。
「すごく、冷たい感じのする相手だった。自分はちょっと、怖かった」
 大丈夫? と心配気にロフォフォラが覗きこんだ。頭にぐるぐると巻かれた白布は、すっかり血に染まり、焦げ茶色に変色していたが、イッツァが身じろぎするたび、また、新しい鮮血が滴って来るのだ。
 それには答えず、イッツァは同じことをもう一度言った。
「優しい心の持主だとは判ったよ。でもなぜか、とても冷たい雰囲気の男だった」
「何か、やけになっているような感じではありませんでしたか」
 クレクレパトラに問われて、しばらく考えてからイッツァは頷いた。
 やっぱり、と言いたげにクレクレパトラは目をぱちくりさせた。
「それは、きっとダツラさんです」
「パトラ! どうして判るんだ」
 言いずらそうにしていたが、クレクレパトラは下を向き、ぽそりと、ダツラさんはやけになっています、と答えた。
 その言葉に、ロフォフォラは嫌な顔をした。そしてイッツァの介抱を始めた。
 パロオミは面白そうに煙草をぷうぷうと吹かし、足を組んでくつろいでいる。
 プシロシベだけが、クレクレパトラの言葉に反応した。
「やけって、どういう意味だい、パトラ?」
 クレクレパトラは引き千切れたラシャンバの裾をからげ、糸を一本一本よじっているのだった。そのたどたどしい指の動きに、しばらくプシロシベは見とれていた。
「結界でもそんなことを言ってたね。でもね、ダツラはそんな奴じゃないよ。ぼくには判る」
 風は強くなかったが、ひんやりとしたものが足元を流れる水から運ばれて来る。空は燃えるような赤みを失って、ぼんやりとした黄色い帯が森の彼方に立ち込めているだけになった。鳥が数羽飛び立つ音がした。黒い鳥ではない。
「ダツラはどんな時でも、心を平静に保つ術を知っている。だからダツラは『技』の一番の弟子なんだ」
 パトラはつぶらな瞳をくりくりさせて困っている様子だ。
「……でも、わたしにはそう感じられます。ダツラさんは、ひどく、捨鉢に、自暴自棄に、火花を散らせて自分をさいなんでいる……」
 ふーん、と溜息をつくプシロシベだった。こんな幼い子と言い争っても仕方がない、と思った。変に大人びた物言いをするのが微笑えましくて、腹も立たない。プシロシベも年齢から言えば殆ど変わらないのだが、この年頃の子の特徴として、1カ月でも2カ月でも大きな大きな違いに思えてしまう。
「自分には判らなかったっ!」急にイッツァが叫んだので、みんなびっくりしてしまった。「どうして、クオ・クーの奴らは、斬られても平気だったんだ」
「薬のせいだよ」平然と、パロオミが言い放った。「麻薬っていうのか? 連中はその中毒で頭がパーになっているのさ」
「そんないい薬草があるのかい。ぼくも欲しいな」
「馬鹿だな。一時だけさ。俺の師が使う、力の煙と似ているな。けど、後はもう、気違いになっちまうんだ。……それより不思議なのは、ダツラ、かどうかまだ決まってないけど、どうしてそんなにあっさり連中を倒せたかだよ」
「自分は、一人の頸を切り裂いた。でも、倒れなかった」
「ダツラはそれを見てたんだろうな。薬でいかれた連中は、自分が死んだことにも気付かねえのさ。痛みを感じないんだから。たぶん……心臓を一突き、ってところかな。いくら鈍感でも、心臓が止まりゃ、倒れるだろうよ」
 プシロシベはその図を浮かべ、身震いしてしまった。
「『武』の道にそのような流儀はない。それは暗殺者のすることだ」
「イッツァよ。気取っている場合じゃねえぜ」
 パロオミは毒づいた。
「俺たちの相手は、お前と他流試合やってんじゃねえんだ。審判は居ねえぞ。これからは、くだらねえ感傷は捨てて、殺しに徹するんだな。じゃねえと、左の目ん玉まで取られちまうぜ」
「ちょっと、あんた」興奮したロフォフォラが肩をいからせて歩み寄った。「言っていいことと、悪いことがあるわ。イッツァは殺されかけたのよ」
「だから、殺されねえように忠告してんじゃねえか。……ったく、馬鹿に付ける薬はねえな。いや、ひとつあるかな。クオ・クーの薬。イエ・スゥデって言ったっけ。忘れちゃった」
「ガシュマルに、あんたみたいな腐った人間が居るなんて、恥ずかしいわね。それじゃ、クオ・クーと同じじゃない」
「じゃあ、どうすんだ。ねえちゃんよ。弓で連中を3人も射ぬいておいて、今さら人殺しはどうのこうの言ってほしくねえな」
『やっぱりこの人、あの壁での出来事も知っている』
 二人の口論を聞きながら、クレクレパトラは思案した。
『寝てた、というけど、どうして知っているのかしら。ロフォフォラさんが弓で射たことは、誰も話していないのに』
 話したかも知れなかった。あるいは、出来事の断片的な説明から、パロオミは理解したのかも知れなかった。だが  クレクレパトラは考え直した。3人、とパロオミは言った。そこまで詳しい話は、していない。
『恐ろしい。錫杖よ、私は、このパロオミという人が理解できない』
 ちりりん、ちりりん、と錫杖は鳴り、クレクレパトラのおぼつかない手は微かに震えた。
「甘えは捨てるんだな。教えがどうの、と言ったところで、聞く耳なんかありゃしねえぞ。ダツラだか何だか知らねえが、そいつ、正しいぜ。さっさと息の音止めてやるのが生き残る唯一の方法さ」
 夕闇の安寧を乱暴に切り裂くその激しい言葉と裏腹に、パロオミの口調は疲れと気だるさを漂わせていた。クレクレパトラは、思い切って、両の手に構えた錫杖を、びしりとパロオミに突きつけた。
「なんだぁ?」ふふんと鼻で笑うのが、クレクレパトラにもわかった。「何か、お気に召さないこと言ったかな?」
 パトラやめて、とロフォフォラが小さく制止したが、構わず一歩、二歩、とクレクレパトラは歩を進めた。ついに錫杖の先端はパロオミの鼻すれすれまで突きつけられた。
「あなたは」喋りだしたクレクレパトラの声は、ロフォフォラに、川原での講義を思い出させた。何かを読み上げているような生真面目だが、微笑ましい口調である。
「何か隠しているのではないですか?」
「何。何をだ?」
「あなたがた『知』の道は、南の荒野を何日もさすらいながら、前兆を求めるだけだと思っていましたが。煙を吸い、得体の知れない力と語り、生活を鍛え引き締めていく道だと思っていましたが。何か隠しておられるのではありませんか」
 かーっ、とパロオミが喉を鳴らした。
「何を隠すことなんてあるかね。『学』の連中はわけのわからん術ばかり使うから油断ならねぇ。おめえ、俺が見えるか?」
 見えるか、という言葉に奇妙なアクセントを掛けるので、クレクレパトラにも、その言わんとするところは辛うじて理解できた。パロオミは、通常の視覚のことを言っているのではない。
「私には、パロオミさんは見えません。ただ、私の錫杖が語る言葉に耳を傾け、そのうちのわずかでも、理解できるよう努力するだけです」
 ふふん、と笑うパロオミに、それ以上何も言わないクレクレパトラだった。

§

 イエ・スゥデの白い結晶が、かり、かり、と音を立てて弾けた。高級な塩のように、ただ濃く白い色をした幾つかの結晶は、熱された皿の上で次第に大きく成長してくるのだった。
「貸せ」
 脂ぎった頬を歪め、茶色い歯を剥いた男は、目を逸らそうともしない。金属の皿が青白い小さな炎に熱されてオレンジ色に輝くのを、憑かれたように凝視している。
 皿には、植物の葉と茎をすり潰したゼリー状のものが、一つまみ載せられ、熱せられている。ぐつぐつと煮立つそのわずかな澱から、次第に白い結晶が持ち上がってくるのが見てとれる。結晶は細長く、鋭角的で、闇の中の穴のように、ひたすら白い。
「貸せっ。早く。焦げちまう」
 麻薬イエ・スゥデの結晶は、生き物のように、かりり、かりかり、と成長する。
 男は、木の茎を折り曲げたものを震える指で掴むと、額に汗を滲ませた。そして、ひとつ、またひとつ、と結晶をつまみ上げ、それを傍らの木製の壷に収めていった。
 こいつをさばけりゃ、こんなやばい仕事もおさらばだ……ア・ジャは腕で額を拭うと、天秤に掛けて重みを計ってみた。ちょっと傾いているようだ。つまり、イエ・スゥデの結晶の重みが、計算より多いのである。
「いけねぇな。純度が低い。火加減が弱いぞ」
 椅子に掛けて、せかせかとふいごを踏みつづける弟分を、ア・ジャは引っぱたいた。
「ばかやろう。やり直しだ」
 微妙な麻薬抽出の作業にはおよそ似つかわしくない太い指を巧みに操り、ア・ジャは再び結晶を皿に戻すと、ひびの入った瓶から水を注いだ。
 辺境の村、アール・ワット・ソーンの日暮れは早い。ア・ジャはもう一人の弟分を怒鳴り付けた。
「クワの字! ランプつけろ、見えねえ」
 ア・クワはぶつぶつ文句を言いながら、油の瓶を振ってみせた。
「もう、油がねえよ、兄貴」
 ア・クワは窓から顔を出し、高い高い山を見上げた。黒い巨大な鳥が、岩壁すれすれを舞うのが見られた。
「こんな世界の果てだもの……日当りが悪くって」
「クワの字、がたがた抜かしてっと、縛り上げてクオ・クーに引き渡すからな。ヒャの字、もっと強く踏め、火が弱すぎる、かすが固まっちまうぞ」
「ねぇ兄貴、どうしてこんな所で精製すんのさ。帰ろうぜ、それからゆっくりやったってよかろ? ねぇ」
 だめだ、とア・ジャは脇目も振らずに言い切った。
「にせ金の時みてえに、またぱくられてぇのか? それにな、街の麻薬バイニンは、みんな、組合作って、つるんでんだよ。俺達のつけいる隙はねえ。ここなら」
 ア・ジャが言葉を切ると、ばさばさと飛び回る、黒い鳥の羽音が微かに聞こえた。
「ほれ。御得意さまが、空を飛び回ってらぁ。関り合いにならなきゃ、あんないい客はねえぜ」
 抽出した結晶を川の水で正確に薄めていく。五百個分は優に有るはずだ。それを、その辺の木にいっぱいなっているウルカの実の皮の内側に垂らし、漏れないようにきっちりとくるむ。それを全部さばけばア・ジャは舌なめずりした。ぼろい儲けだ。いっそ、唯の水滴だけの奴も混ぜて、千個にしようか? わかりはすまい。半分は本物の麻薬なのだから。
 それが終われば、あの空飛ぶ黒い鳥をかっぱらって、トンズラだ。
「ジャの兄貴。手入れの連中だ、居るぜそこにっ」
 ア・ジャは首を傾げた何で、こんな森の中の小屋に、手入れが来るんだ?
「おう、ヒャの字」声は荒らげたが、目と指は、皿に張付いたままだ。「よーく見てから報告すんだぜ。誰が、こんな所まで、俺等を掴まえに来るんだぁ」
 ざさ、ざさっ、と森が大きく揺らぎ、ア・ジャ達が雨をしのぐ小さな小屋はミシミシと悲鳴を上げた。ア・クワのふいごを踏む足が止まった。
「外を見ろよっ、兄貴ぃ」喝采するようなア・クワの声である。
「鳥だよ。鳥が落ちたよぉ」
 ア・ジャは扉を開けて外に飛び出した。霧雨に霞む黒い森の中に、煙を上げる残骸がはっきり見えた。濡れそぼる髪をくしゃくしゃとかき回してから、ア・ジャはひゃっほー、と叫んだ。
「ひゃひゃ、願ったり叶ったりじゃねぇか、鳥だ鳥だ、あの鳥を分捕って……いや、乗っている奴をまず助けてだなぁ、薬を買わせてやる。そうして、基地まで、案内させる。俺たちゃ、クオ・クーの兵士を助けた大恩人ってこった。商売がやりやすくなったぜ」
「兄貴! 危ねえ」
 ア・ジャの右腕に激痛が走った。電気が流れたように右腕が痺れ、同時か、そのすぐ後に、きいいいん、という鋭い音が空気を切り裂いて飛んでくるのがわかった。
「やや、矢!」矢の先端は、ア・ジャの腕を貫いて飛び出していた。
 ぐっと歯を食いしばってその矢じりを掴むと、ア・ジャはそれを引っ張った。矢の後ろには羽飾りが付いており、そこが突っかかってなかなか抜けないのをア・ジャは力任せに引き、抜き取った。ぴしゅっ、と血が飛び散るのと、次の矢が飛んでくるのと同時だった。
「じょ、冗談じゃねえぞぉ」
 草むらに横っ飛びに避け、ア・ジャは声を枯らして怒鳴り散らした。
「何でぇ何でぇ、俺が麻薬密売やってる証拠がどこにあるっ」
 ア・クワとア・ヒャも小屋を飛び出してきて、兄貴をかばうように飛び付いて、地面に伏せた。
「おう、おう、おめぇら、泣かせるじゃねえか。しかし、ここはよ」
 ア・ジャの目の前の草が、きいいーんと飛び去る矢に射貫かれて、ぱらぱらと散った。「ここは、逃げていいぞ。どうやら、とんでもねえ弓使いらしい」
「墜落したクオ・クーかな? 兄貴?」
「逆じゃねえかぁ? 墜落させた奴等がいるんだろっ、きっと、弓であの鳥を」
 びくん、と身を固くして、ア・クワが泣き出した。草むらに伏せた姿勢で、尻に矢を命中させられたのである。
「け、けつに、矢が! いてえよ」
 くそーっ、ア・ジャは完全に頭に来た。
「俺っちの可愛い弟に何しやがる。姿も見せずに卑怯だぜ」
 つん、つん、とア・ヒャが背中を突っついても、ア・ジャは頭を抱えて地に伏せたまま、姿を見せろ、卑怯ものー、と怒鳴りつづけた。
「ねえ、兄貴」
「来るなら来やがれ、逃げも隠れもしねえぞ」
 つん、つん、としつこく背を突っつかれて、ア・ジャはようやく顔を上げた。
 見知らぬ子供達に、いつの間にか取り囲まれているのに初めて気付いた。
 おそるおそる顔を上げ、地面に座り込んで見回した。
 五人居る。男の子が三人、女の子が二人のようだ。見るからに精悍そうな大きな瞳の娘が黒い弓を背に掛けて居るのを見て、ア・ジャは、ちっ、と舌打ちした。
「俺さまもヤキが回った。何でこんな小娘に弓でいじめられるんだ?」
 先頭に立ったパロオミが、ぺこり、と頭を下げた。
「やぁ、悪い悪い、てっきり、クオ・クーだと思ってね、へへっ」
 ロフォフォラはもじもじと身をくねらせていたが、やがて、ごめんなさいっ、と謝った。素っ頓狂な声で、髪が地面に着くほどの謝り方だったので、ア・ジャも馬鹿馬鹿しくて怒る気を無くしてしまった。
「……おめえら、どこのガキだ?」
 プシロシベは、黙って、山を指差した。
「ふーむ。そりゃそうと、この落とし前はどうしてくれんだ、あ?」
 居直り強盗のように、ア・ジャは草むらにあぐらをかき、頬を歪めた。
「おう、クワの字、尻見せてみろ」
 ア・クワが腰の蔓をほどき始めたのを見て、ぴしゃり、と頭を叩いた。
「そんなもの見せんじゃねえ、傷を見せろってんだ」
 だって脱がなきゃ、ともごもご言うア・クワには耳を貸さず、尻に突き立てられた矢をむんずと掴むと、有無を言わさず引き抜いた。
「ぎいえええ」
「おうおう、見ろよ、この痛がりようをよ」
 プシロシベとロフォフォラは困ったように目を見合わせている。パロオミは、にやにやして、うずくまった3人を見下ろしている。
「この村で行商しようと、えっちらおっちらやって来てだな、いきなり何の罪もないのに、矢で撃たれてだな、可哀想じゃねえか、ええ? どうしてくれんだ、ああ?」
 小馬鹿にしたように、にたにたするパロオミに、ア・ジャは声を荒らげた。
「ええっ! どーしてくれんだ、おおっ?」
 笑いを堪えかねたように、パロオミが腹を抱えた。
「どうするか? どうするって、アンタ」
 
「どうするって? おっさん、自分の立場がわかってんのかよ?」
 怒鳴り返して、一発殴りつけるのは簡単である。ア・ジャは身体も大きく、がっしりした大男だ。こんな痩せこけた子供達が幾ら束になっても叶う相手ではない。
 しかし、ア・ジャはこうも思った。自分は堅気には手を掛けない。騙すこともしない。そこがア・ジャの売りである。その評判だけで、どうにか大目にみてもらっている。バックもない三人組が、裏の世界を渡り歩いていられるのは、わずかに、その頼りないただひとつの売りのおかげである。
 それに、こんなガキ相手に暴れるのも、如何にも大人げない。
 何しろ、黒い鳥の墜落があったのだから、もう、誰か他人が近くまで来ていることは大いに有り得る。森のどこかから、クオ・クーや、他のバイニンに見られる可能性がある。してみると、ここは軽くあしらうに限る。
 ほのかな煙を上げてくすぶる白い結晶のことをア・ジャは思い出した。
「おっと。こんな事している場合じゃねえんだ。俺たちゃ商売が忙しいんだぜ」
 


 薄闇に包まれて、霞のかかった辺りの風景を見つめるとき、ダツラはいつも同じ情緒に身を委ねるのだった。安らぎと、諦観にも似た、涼しい静けさだ。
 それを、ダツラは青だと思っていたけれども、夕焼けの赤が消え去った後だからそう見えるのかも知れない。
 黄昏の激しい色彩が消え、夜の帳が降りて全てを覆う前の、わずかな一瞬。ダツラはそれが好きだった。その時間だけ、ダツラは心から自由であると感じ、強められる気分を味わう事ができた。他人と、自分の存在が全く気にならない時間だった。誰かが自分を見て笑っている、という強迫観念が、日暮れと共に消え去る、希有な一瞬だった。
 空気は、顔を拭いた後の、柔らかい上等の布切れの感触だった。
 自分が登っている枝と葉が織り成す複雑な影模様を、ダツラは半眼で眺めていた。
 薄目にすることで、いっそう、夕暮れの神秘な視覚が強化された。そうやって、一人遊びするのである。
 伸ばした右脚が、次第に周囲と区別できなくなり、ついには、影の一部になった。
 葉が揺れた。ダツラは、自分が脚を動かしたのかと思った。しかし、それは、か弱い風が、夜の訪れを告げる合図に過ぎなかった。次に、本当に脚の指を動かした。それが、自分の体の動きではなく、葉の揺らぎに見えるまで、ダツラは心を点検し、視覚を調整した。それは、洞窟の中で耳を塞ぎ、自分の体内の血流の音を聴くのと同じぐらい、ダツラにとって楽しい一人遊びだった。何とも言い様のない感じになるのが好きなのである。
『動かしていないのに、動いている』
『動かしているつもりなのに、動かない』
 自分の体が、自分ではなくなる変な気持ちになるまで、ダツラは慎重に自分を調律していった。
 ダツラを包みこむ、褪せた、ぼんやりした薄闇を、彼は青だと思っていた。
 無気力にも似た奇妙な心持ちのダツラの頭上に、一筋の星の光が瞬いた。軽く身震いすると、ダツラはぴょーんと枝を飛び降り、草をかき分けて走り始めた。
 人の気配がすることは判っている。それは、樹が疎らになった辺り、下生えの草から幾つかの頭がちらちら見えることで判る。
『来ているぞ』ダツラの脚は早くなった。『プシロシベ! ロフォフォラ!』


 『ロフォフォラ! プシロシベ!』
 今にも声を上げそうになったダツラは自分の胸に手を当ててぐっと堪えた。
 まず彼が見たのは美しいロフォフォラだった。しかし、他の人間が見え、ダツラの胸は、ずきん、と暗い衝動に突き動かされたのだ。そのかつて感じたことのない動悸が、もうちょっとで叫び、飛び降りようとする体を押し留めた。
 パロオミが、ロフォフォラの肩に手を回し、親しげにしている。もちろん、その小太りの男がパロオミで、ダツラを追ってきた一人だなどとは判らない。
 枝の上で崩れかけたバランスを、全身を硬直させて保った。空中に伸ばした脚が一枚の葉に触れたが、その音は彼らには聞こえなかったようだ。
『あれは、誰だ。あんなに親しそうに。誰なんだ』
 ロフォフォラが、こんなに大人に見えたのは、初めてだった。ダツラは、何だか、ロフォフォラが遠くに行ってしまったような気がした。
『知らなかった。何であんなに親しいんだ』
 ダツラ自身にも判らなかった。それは、嫉妬なのだろうか? 修行の最中でも、そんなに心乱れたことはなかったのだ。
 何かどす黒い復讐心の塊のようなものが、ダツラの心に芽生えた。
『ぼくには、わかる』ダツラは思った。
『こんなつまらない事で心を動かされるのは、どうかしている。でも、ぼくには、それがどうしようもないことが判るんだ』
 そのどす黒い感情は、はっきり、ダツラ自身に向けられていた。ダツラは自分で、自制心と、恥の感情にがんじがらめにされているのが判っていた。
だから、それは、自虐の快感にどこか遠くでつながっていた。
『くそっ、くそっ』肩が震えた。『何で、ぼくじゃなく、あんな奴と親しいんだ。あんなこと、ぼくにはしてくれなかった』ダツラは自分が嫌になってきた。『何で、ぼくはこんなに苛立つのだ』