わしの日記
2013/03/24 (日)
ネトウヨという言葉についての雑感
わしはシステムエンジニアである。だから、部下と政治論を戦わす機会はない。
だが、わしのような人間にも、目をかけた後輩は数少ないが居る。そんな一人がわしに言った。
「○○さんはネトウヨですよ」
彼には、わしのツイッターアカウントぐらいは知らせてあるから、見ているんだろう。
そういえば、同期と酒飲んでいる時に、安倍についてどう思う?と聞かれ、二つ返事で、安倍以外考えられないね!と答えたことがあった。答えてから自分で、自分に驚いた。そんなことを考えたこともなかったが、そうなのか、と。
自分で自分のことを、安倍信者と思ったこともないし、今でもそう思っている。が、当時は野田政権の末期であったし、自民党総裁は安倍に決まった後だったし、わしは維新の会などまったく信用しないし、石原慎太郎は尖閣の件、よくやったと思うものの、なぜ太陽の党を橋下に捧げたのかさっぱりわからんので、消去法でそうなった。自分の主義と違う意見を見ると許せない方には申し訳ないが、これがわしの、きわめて貧弱な、政治的意見である。
その後、関連書籍を数冊読んで、あー俺、安倍支持だ、と思ったわけだが、TPP交渉参加にはがっかりしたクチである。
なんだろ。参院に勝つためには経団連をだます必要があるのか?と最初思ったが、本気で参加なんだな。がっかりである。でも、さっきの消去法はまだわしにとって有効で、安倍しか居ないのだ。維新は論外だ。少なくとも大阪維新は論外。太陽維新(つまり、「たちあがれ日本」ね)が、独立してくれんか?と本気で願っている。
「反」だの「卒」だのの、反原発運動も、悪いけどお断りだ。
あの水素爆発の時、わしは本当にテレビの前で青ざめたものだ。
「何か隠しているぞ!」
「日本は滅びるぞ!」
母は笑っていたが、わしは本気で思った。だって、あの枝野のひきつった様子は、怪しさ満点だったもの。
だが、その後、いろいろと放射線量のデータやらを調べるうちに、考えが変わってきた。
管、枝野をはじめ、民主党のいかがわしさを知るにつれ、あのときわしが感じた怪しさは、東電ではなく、民主党に対しての直感だった、と確信した。
正直に言って、稲博士を持ち上げる田母神閣下や西部邁ほど楽観的ではないが。
いまブログを見渡すと、平気で「原発が爆発した」と書いているひとが多い。
これは事実ではない。原発容器が爆発したのではない。建屋に充満した水素が爆発したのである。いま、故意にそんな嘘を書く輩が、そんなこともわからない純なひとを騙している。
福島第1原発は、東日本大震災でも、確実に自動停止した。これは事実だ。わしはすごいと思うよ。
ただ、電源の位置が悪かったから直す必要があるな。津波は想定外だったんだ。
だが、日本中の断層を、考古学者よろしくほじくり返して「十万年前に断層が動いた!」と報じるのは、何かおかしい。
東電の人だって、いろんなひとが居るだろう。現場のひとに知り合いは居ないが、有名なhappyさんのツイートはわしもフォローして拝見していた。現場のひとが政府に批判的なのは当然だと思うし、自民党を糞味噌に言ったって、気持ちはわかる。悪口のための悪口は困るが、特定の発言、政策を批判するのは当然だし、それを許さないのは独裁国家みたいなもんだ。逆に、何もしないやつが、何でそんなに東電を、悪く言えるんだ?とわしは疑問を感じている。東電を潰したら、だれが、廃炉までの後始末をするんだ。
国を思う真面目な心の持ち主だが騙され易いひとと、偏った意識や明確な目的意識で煽るひと、の少なくとも2種類が、反原発では混ざり合っていると思う。
左翼崩れの勢力、中韓の意見を受けたプロ市民(煽り屋)が、純粋に日本を憂える人々をだまして誘導するのは許せんと思う。
また、明確にそうではなくても、自然とそんな意識を刷り込まれたひともいる。こっちの方が厄介かな。
歴史でいうと、キリスト教の布教みたいな感じかな。例えがおかしいかな。あるいは、例えが大袈裟すぎて合わないかな。でも、自分が正しいことを知っているのに、誰もわかってくれない!という意識が、やがて、「正しくない奴には何をしてもいいから止める」「正しくない奴に教えることが重要。何もしないのはむしろ卑怯だ」「正しいことを理解しない少数者が死んでも、仕方ない」というところまでエスカレートするんだよね。歴史を学ぶことは重要だと思う。他山の石とせねばなるまい。
本当に原発事故に心を痛め、日本人として立ちあがる人が確かにいると思う。だが、山本太郎や上杉隆みたいになってしまってはイカンだろう。あれでは、シーシェパードと五十歩百歩だと思うんだ。「鯨さんを守るためなら人間を殺してもいい」のがシーシェパードだろう。他の問題を捨象して、とにかく原発を阻止することが至上の命題になってしまった俳優や、至上の命題を守るためなら、嘘で煽ってもいいと公言する自称ジャーナリスト、などは、わしには信用できない。
道を踏み外していると思うのだ。なぜ?とわしは不思議に思う。くだくだしく書くなら、「悪い手段をとってもいい、なぜなら自分の考えが正しいから!」と、なぜ思ってしまえたのだろう。そんな確証があるのだろうか。
さて、冒頭の話に戻すが、後輩にネトウヨ呼ばわりされて、わしは悲しかった。
ネトウヨという語はまず、左翼崩れ(カタカナでサヨクと書く方がわかりやすいだろうが、特定の意見や立場と混同されることを警戒して、こう書いている)の造語だというのがわしの認識である。だから、対象は非常に広く、本当に国を思うひとから、ただネットで憂さ晴らしをしているクズみたいな奴から、右翼のふりをして街宣車を走らせている三国人まがいのインチキ愛国者まで、全て該当する。
オスプレイへの執拗な攻撃は、物事の本質をすり替える彼らの手口の典型例である。彼らがどんな偏向報道を新聞やテレビで流そうと、凧をあげて飛行を妨害しようと、四国上空を通過するという些細なことを、針小棒大に報道しようと、オスプレイは一向に墜落する気配がない。優秀な機体であることは認めねばなるまい。
テレビ朝日が雇うヘリコプターの方が、よっぽど墜落率高いと思うな。わしは、意見が違うからと言って相手の死を願うような愚劣な習慣は持たないので、ぜひ安全には留意して、「公正な取材」「国民の知る権利の代行」とやらを続行してもらいたい。
さて、こんどこそ、冒頭の話に戻そう。
わしは、実社会でコミュニケーションがうまくできないからネットで意見を書き散らしているのだろうか。なるほどそんな面があるように、第三者からは見えるかも知れないから、否定はしない。
わしは、地球社会を否定する後進的な考えの持ち主なんだろうか。それは、否定しない。小松左京が「物体O」で書いた『小さく区切ればうまくいく』というテーマの重さから、わしは今だに逃れることが出来ない。人間のコミュニケーション能力だけ考えても、あまりに巨大な範囲での直接民主制は、ロクな結果にならない。それは、清廉潔白でエコでLOHASな人たちが考えるほど、「人間は立派ではない」という一点に帰結するのである。
長くなったが、以上を踏まえて「ネトウヨ」呼ばわりされるなら、甘んじて受けよう。