わしの日記
2006/05/07 (日)
『人間は○○の○○である』
GWは、母を連れて、牛久の親戚の家を泊りがけで訪ねてきた。
昼間からおじさんと酒飲んで。近所を歩いて。寿司食って。ビール飲みながら亀田兄弟見て。
母は、子供の頃から一緒だった「ねーちゃん」(って婆さんだが)とずっと話し込んでいる。
「ファミリーを作れ」と、89になるお婆さんに叱咤激励されたが、こればっかりはなぁ。
しかし、なんだ、いいエネルギーを貰ってきた。おふくろも喜んでいたし、地味だが、いい連休であったな。
とは言え、暇だから考え事ばかりしていた。
『人間は○○の○○である』なんて、気の利いた言い方を考え付いちゃうと、意外と、それだけで、いろいろなことが説明できそうに思えることがある。
社会の成り立ちや、経済の動きや、人がなぜ××しやすいか、など、当てはめてみると、次々と符号するように思えて、独り、興奮する。
そして、頭が良くて暇な人は、それを本に出してベストセラーやミリオンセラーになったりする。
しかし、続編を書いたりテレビに出たりするうちに、どんどん話がおかしくなって、最後は忘れられる。
このようなことは、実にしばしば、そしていろいろなひとに、繰り返し、現れるパターンであるように思う。
ちょっと神がかった言い方をすれば、このような考えは、しばしば、誰か暇なひとを見つけて、向こうから「降りてくる」んじゃないかとさえ思う。
どういうことなんだろうかと考えるに、わし自身も含めて、人には、次のように「思いたい」傾向が内在している。
・この世の中は、実は非常にシンプルな原理で成り立っている
・この世の中の出来事のほとんどは、実は非常にシンプルな原理で、だいたい説明がつく。
・ほとんどとは、適用分野を問わず、宇宙の成り立ちから、人類の発生から、物理現象から、政治・経済・娯楽・男女関係、マクロからミクロまですべてである。
さて、これが落とし穴もしくは人間の理解力の限界点であって、実はこの展開のどこかで、やはり誰しも、何かが脱落してしまうのではないだろうか。
そこを慎重に、心の聲に従っていけるひとは、たいへんな遠くまでたどり着き、哲学者になったり、時代が時代なら宗教家になったりする。あるいは帰ってきて、そこらへんで普通の生活をしながら、仙人のようにあたりを見渡してほくそえんでいるの知れない。
しかし、わしのように、おっちょこちょいな人間は、独りで探求するには興奮しすぎていて、わお、わお!と叫びながら、真理のひとかけらの残影だけをつかまえて、あーでもないこーでもないと言葉ばかり飾り立ててしまうのである。せいぜい、こじゃれた流行のキーワードを生み出すぐらいが関の山。それも、いずれは本来の方角とは違う方向に向けて転がり、去っていくだけのものだ。