わしの日記

2003/10/21 (火)

生産性の船(洋上研修)1/8

出発


小職、会社から褒美?で洋上研修に参加した。社に提出したレポートがこれである。ただ、実名は伏せてある。
同僚には「戸塚ヨットスクールに行かされる」などと嘯いていた小職であるが、実際やっぱり、研修であるからして、別に楽しい旅というわけではなかった。んが、今、思い返してみると不思議と、それなりに良かったかなとも思う。文中には出てこないが、船のデッキから独りで眺めた夕暮れの雲、そして、ロシアの、楽器を演奏していたあのお姉さんを思い出すと、当分は、生きる元気が出るかなぁという感じがしている。



横浜港大桟橋ターミナルに集合した。荷物と団員証を受けとった後、指示に従って税関をくぐるともう船からは降りられない。日本チャータークルーズが運営する「ふじ丸」はなかなか大きな船である。この時点では、船の全景が見られない。自分の乗っている船がどんな形をしているか、じっくりと距離を置いて眺めることができたのは、なんと、ウラジオストクで、朝、港周辺を散策した時が初めてである。プサンでもそうだったが、接岸している状態では、なかなか船の全景を見ることができない。
乗り込むと同時に、普通のビジネスホテル同様のロビーと、エレベータがあったので、ちょっと意外だった。
割り当てられた船室524号まで、自分でスーツケースを押していった。荷物を片づけたところで、同室の相手がわかる。同チームの**氏であった。2名でゆったりと部屋を広く使えたのは、ありがたかった。
予定表では昼食の有無が明記されていなかったが、「ふじ丸」レストランにて、フルコースが用意されていた。なかなか豪勢であり、この時点では、この後8日間、朝・昼・晩ずっとコースが出るのかと勘違いしたが、食事は、和・洋・中華、多彩なメニューが用意されている。どれも非常に美味しかったので、カロリーに注意していつも残していた。

食事後、出港式は、船上、船の横のデッキ上で行われた。xxx社から参加したメンバーとも、ここで顔合わせして挨拶をした。陸側では、桟橋に横断幕(『○○君、洋行おめでとう!』といった類い)などを並べ、盛大なエールを送っていた。少々おおげさな感じもして、最初は苦笑していたのだが、飛び交う紙テープを見ていると、だんだん気分が高揚してきてしまった。当社からも、人事G・○○さんらの見送りを頂き、これが非常にうれしかった。実際にその場に立つまでは、この種の感傷に自分がとらわれるとは思ってはいなかったが、実際に船が岸壁を離れる際に居合わせてみると、ちょっとした感動のようなものがこみあげてくるものである。私は、船が離れ、ちぎれるまで紙テープを持っていた。

14:30から、船内のパシフィックホールにて結団式があり、団長講話のあと、再び解散。16:00からは避難訓練で、船室の救命具を身につけ、先ほど見送りを行ったデッキに集合、再び救命具をたたんだ。この頃から、階段を降りる時などに、船の揺れを感じるようになってきた。勢いよく階段を駆け降りていたら、階段が揺れで「逃げて」しまい、踏み外しそうになったことがあった。

19:00から、ふじ丸レストランにて、ウェルカムパーティーが開かれ、再びスーツを着用して参加した。名刺交換を予期して大量に持参したが、ほとんど使わなかった。名刺を交換したのは、正式のパーティより、夜の飲み会の方が圧倒的に多かった。同じパーティでも、最初のパーティより、最終日直前の「さよならパーティ」の方が、名刺は必須であると思ったが、私はそこでも数枚しか必要としなかった。もっともこれは、個人の資質も関係すると思うので、今後の参加者には参考にならないと思う。

この日、大浴場に入ったが、後にも先にもこのときだけで、後は、室内のシャワーで済ませた。男性団員の数(百人以上)に比べて、洗い場が6個というのは少なすぎる。私は運良く、待ち時間なしで割り込めたが、背中に視線を感じて、落ち着いて体を洗う気になれなかった。洗い場が空くのを待って、風呂に入っているうちにのぼせた団員も居たと聞く。また、揺れの激しい晩は、二つある浴槽間を、交互にお湯が移動し、なかなかスリリングであったようだ。

なお、「船には乾燥室が無いから、洗濯ものを干すのに、ハンガーを持参した方がよい」ということがパンフやサイトに、過去の参加者の声として掲載されている。これは半分、嘘である。乾燥室はある。しかも広いので、干す場所も充分にある。ただ、(おそらくその広さが災いしてか)一晩入れておいても乾きが悪い、ということはあった。私は主に、同室の相手の許可を得て、室内にハンガーで吊るした。「ふじ丸」の空調は常に快適で、朝までには確実に乾いた。だいたい、ビジネスホテル並みの居住性は満たされている。