わしの日記
2000/01/01 (土)
社説
ミレニアムの幕開けは来年だ
常日頃、テレビやラジオで『ミレニアム』『ああミレニアム』『ミレニアム』と連呼されるのを、苦々しく思っている者である。ゆーまでもなく、今年は第2ミレニアムの終わりの年であって、まだ第3ミレニアムは始まっていない。だいたい、『ミレニアム』ったって、いつもどこかのミレニアムには属しているわけで、こんないいかげんな言い方もない。「今は"世紀"だ」とは言わないだろう? 今は20世紀で、ついでに言うと20世紀の終わりの年である。21世紀はまだ来てないことを知ってるのに、第3千年紀はもう来たと思ってる人間がこれだけ多いのは、単なる無知より、重症だ。ナンか変だと思いつつ、ムードに流される人間がこれだけいるというのは、どうかしているぞ。
しつこいが、2000年代とミレニアムは違う。「え?」というあなたは、始まりが0年と1年、それぞれ違うことを指おり数えてごらんなさい。そして猛省して、これからは毎日わしの日記を読んで精進しなさい。
それから、なぜこんな状況になったのか、それは『大聖年』を迎えて浮かれるキリスト教徒たちの、なかば強引な牽強付会によって言葉の定義が捻じ曲げられてしまったのだということも理解して、相手を選んで説得するようにしなさい。
「ミレニアムかどうかは、個人の信念の問題だ」
と開き直る輩も、この世の中にはおるのです。何を信じようとかまわんが、公式な言葉の定義についてわしは論じたいのである。キリストの生誕2000年を祝って、こんなことを書いておるのではない。
わしの論旨については過去の日誌を見てもらうとして、ひとつ誤解があった。この場で発表はしてなかったかも知れないが、わしは几帳面なので新年早々、自説を訂正した部分を述べたい。それは、日本でこのような状況が放置されている原因のはそもそも、
「ミレニアムなんて、我が国固有の暦法単位じゃない」し、
「キリスト教徒の神経を逆撫でしたくない」、という"他人事ムード"のほかに、
「不況脱出のいいムードをもたらす新しいキーワードが欲しい」
という待望だと我輩は考えておったのである。はっきり言うと、堺屋長官、あるいは小渕内閣こぞって、いやいやさらには経団連、日経連、その他が一丸となって口裏を合わせ、
今年はミレニアムの幕開けだ! 不況脱出、めでたいめでたい!
ということにしてマスコミを扇動し、反論を封じ込めているのだ、と信じていた。陰謀史観ですな。(失笑)
しかし、これが誤解だったようだ。
というのも、政府が企画している『新千年紀祭』の情報をつい昨日知ったのだが、そこには担当相として堺屋太一氏の名を明記した上で、2000年12月31日の深夜から1年間にわたって、インターネット上でイベントを催すと書いてある。2001年をインターネット普及元年と位置付けるそうな。
これを見ると、やはり政府は、宇宙人の死体を隠して、じゃなかった、21世紀も第3ミレニアムも始まっていないと考えているのではあるまいか。頼もしいことである。
昨日は気になってしょうがないので、NHKの言葉使いを終始チェックしてみた。
さすがNHK、なかなか注意深く、「2000年代の始まり」ということばを使っていた。さすが国営放送、巨人中心の日テレやフジやテレビ東京と違って、この辺の指導が徹底しておるな、と感心したものである。(今度視聴料払ってあげるから、早くわしの新居に集金に来なさい)
しかし、惜しむらくは、ミレニアム島からの中継レポーターだけが、
「まもなく新ミレニアム」
と言ってしまったことである。BSの視聴料は払わんことにしたから、よーく勉強しなおしなさい。