わしの日記
1997/03/09 (日)
柳生十兵衛シリーズ
十兵衛修羅のごとく
長剣をたばさんだ侍が、大股に道を登っていく。伸び切った蓬髪の下で隻眼を光らせるその男こそ──柳生十兵衛であった。
雲はやけ、道は乾いている。
陽は、いつまでも沈まない。
「おい、おい、何でござるか、その風景描写は?」
突然、十兵衛がカメラの方をふり向いて言った。
「読者をなめておられるのか。そりゃ、『木枯らし紋次郎』の主題歌でござろう」
ナレーションが一瞬口ごもり、慌てて続けた。
「あ、あ、アフリカの朝は早い」
「そりゃ、番組が違うでござる」
十兵衛は呆れたようにつぶやいた。
「まぁ良い。それに読者は、十兵衛というと、どうしても千葉真一の顔しか浮かばないでござろうし、先入観というものは、逆手に取れば、作家にとって、いくらでも利用価値のあるもの」
……孤高の剣の達人らしく、常人にはまるで理解の及ばぬ難解なことばを、十兵衛はぶつぶつともらしたが、足の動きは一向にとまる気配がない。夕日が染める紅の陰を踏み分け、急な坂をすた、すた、と登っていく。両脇にそびえる杉木立から見え隠れする、鋭く赤い光に、目を細めながら、それでも十兵衛は登っていく。
ひとりの少女が、なぜか道端で漢字の勉強をしていた。
十兵衛は、それを覗き込み、これからおっかないおじさんたちが来るから、あっちいきな、と優しく言った。ついでに、一心に書き込みをしていたドリルのページを指差し、「野茂はエイユウじゃなくてヒデオ、汚れたのはヒデオじゃなくてエイユウ、ニンザブロウじゃなくて、トキトウ・サブロウ、ぜんぶ間違ってるでござるぞ?」と指摘した。少女はいたく恥じ入り、礼を言うと、漢字ドリルを放り出して走り去っていった。
くの一にフラれてもう一年になるのに、あいかわらず頭から彼女の笑顔が離れない十兵衛は……。
「おいおい、これから剣の果たしあいなんだから」
十兵衛がまたナレーションをさえぎった。その声は苦渋に満ちている。
「余計な解説は無用でござるぞ」
いささか動揺の隠せない十兵衛であった。
「動揺してないでござる!」
あのくの一も漢字に弱かったが、決してそれを認めず、ただ自分が正しいと言い張るしかできない性格の持ち主であった。それと今の少女の姿を比べ……
「比べてないって! 余計なナレーションはやめて欲しいでござる!」
ひとり、山道で剣を振り回す、物騒な十兵衛であった。
彼方に、何かが動いた。
十兵衛は静かに歩調をゆるめ、やがて完全に止まった。
暑い夏の午後の逃げ水のように、土埃がゆらめき動き、やがて人の形となった。
そして、ものすごい勢いでこちらに突進してくる!
それを、悪夢でも見るように、十兵衛は静かに、何の緊張もない目で見ていた。
十兵衛は、身じろぎもせずそれを迎えると、静かに剣を抜いた。
──第一の敵! 柄を握る手のひらが、ぎゅっと、音を立てた。
「やーやーやー、ビートルズがやってくる、じゃなかった、柳生十兵衛よ、ここで会ったが百年目、いざ勝負!」
いきなり長刀をふるって襲い掛かってくる第一の敵をかわしながら、十兵衛は叫んだ。
「ちょ、ちょっと待たれぇ! おぬしは、拙者の名前を間違って覚えておるぞ」
「なに?」
気勢を削がれたか、長刀使いは回転を止め、柿色の頭巾からいぶかしげな視線を送った。
「なにがまちがっておると?」
「ぬし、今、なんと拙者の名を読んだか?」
「柳生十兵衛」
「おおお……違うでござる」
「なんと申される。主は確かに柳生十兵衛、そっ首惜しくて、戯言を抜かすか?」
「違う、違う、読み方が違うのでござる」
「む?」
「おぬしは、いま、『やなぎ うんじゅうべえ』と読んだ」
「ち、違うのか? そうか、『りゅう せいじゅうべえ』か」
「違うでござる」
十兵衛は話を変えた。
「ぬし、さっきビートルズと言ったが、ザ・ナンバーワンバンドが、『ストーンズがやってくる ヤァ! ヤァ! ヤァ!』という曲を作ったのを知っているか」
「む、むむ。知らないでござる……と言って」
長刀を放したと見るや、背後に右腕を回して大刀に持ちかえたのに、十兵衛は気づくのが一瞬遅かったようだ。
「そんなつまらないオチでひっこむ拙者とお思いか! ばかめが!」
電光石火の勢いで、渾身の力を込めた右腕が、十兵衛の頭上に振り下ろされた! その腕には、音もなく抜かれた大刀が握られている。
──ざくろが、いや十兵衛の脳漿が、辺りに飛び散るのを、第一の刺客は確かに見た。
……いや、見たと思った。長刀はまだ地面に倒れてすらいない。この早業を避けうるものがこの世にいようとは思われない。
だが、十兵衛は、まるで、自身、陽炎と化したようにつ、つ、つと進み、下から、刺客を斬り上げた。
血しぶきを上げ、どう、と男が倒れた。ほぼ同時に、長刀が倒れた。
そして、一瞬遅れて……まっぷたつになった紙束があたりをひらつき、男の死骸にかぶさっていった……刺客が斬ったと思ったのは、「小学2年生漢字ドリル」だったのである。
§
死骸の右胸に、「3ねん4くみ 朽ノ葉兵庫」という名札をみつけ、十兵衛は鼻を鳴らした。
「ふん、じぶんの名前だけは漢字で書けると見える。なに? 『クチ ノハヘイコ』? なんだこりゃ人間の名前か???」
しかし、その誤読を指摘すべき人間は、今、十兵衛のそばにはいない。柳生の城を失い、女こどもを彦左衛門に預けて逃がした今、十兵衛に頼るべき何者もいない。
くの一にフラれたっきり、生きる自信すらなくし酒飲んで荒れるばかりの十兵衛は、憮然とした表情で死骸を……死骸を……いや、カメラごしに、ナレーターをにらみすえた。
「だから、その、フラれたっての、やめてほしいでござるぞ」
(つづくかどうか知らん)