わしの日記

2021/02/28 (日)

たまには真面目なことを世に問おう

世を覆うリベラルと称する言説による対立意見の封殺


 男女平等というのは、性別でなく能力で判定しようということですよね。もし、女性に優れた人が多い分野なら、男女同数にしたら不平等で、能力で決めて、女性をより多くせねばならないはずです。

 なぜ同数にこだわるか。論理の飛躍があります。多くの良識ある人がこの議論に取り合わない理由です。

 リベラルを自称する人の論法には典型的なパターンがあります。
 それは、「なぜそれが正しいのか」を伏せて、周辺の事象から述べたてることで、彼らが本当に主唱したい「前提」が、当然の自明なことであって「今さら論じるまでもない人類共通の真理」と思わせる手法です。
 冒頭に挙げた男女平等の例だと、なぜ男性より女性が結果的に少ない分野(この場合は政治)があるか、それがなぜいけないか、を全く触れずに、
「男女の数が不均衡である」
「外国では…」
というところから議論を始めようとするひとが多いですね。彼ら・彼女らの口調にヒステリックで断定的なものが多い、という見方はさておき、冷静に見てみましょう。
 不均衡がいけないのはなぜなのでしょうか。それは結果ではないのでしょうか。もし女性政治家の数が相対的に少ないことが本当にいけないのなら、
「優れた女性が多いはずなのに女性だから登用されない現状がある」
という背景の分析がまずあり、その対策を打ったうえで、打破できない課題について議論すべきではないのですか。
 外国では…という議論も全く同様と考えます。なぜ外国が正しいのですか、いや、あなたの言う外国ってどこですか? 百歩譲って正しいとしましょう、でも、国柄の相違、文化の相違などをすっ飛ばして、その部分だけ日本にあてはめて、果たして有効な対策になるか、わたしは疑問を持ちます。

 全く分析がされていませんね。「結論だけを述べる」というのとも違うように思います。
 結論Bのその先を述べることで、結論Aは言うまでもなく正しい、という雰囲気を作り上げることが、リベラル派の論調に隠された目的、いや、心情なのではないでしょうか?
 上の例の隠された「結論A」は何でしょう。こういうことではないでしょうか。「女性議員の数が少ないのは、現状の男性政治家を中心とした政策・活動・意識に間違いがあるからだ」という彼ら・彼女らが無条件に信じる(もしくは、冷静に話せば論破されることを知っているため議論に載せたくない)前提が背後にあるはずです。そのためだと思いますが、そのことが本当に正しいのか検証をしようとすると、「性差別主義者」というレッテルを貼るなど、正面きった議論を避けるひとが多いです。もっとも大切なことを議論させない雰囲気を作っておいて、"リベラル"を自称するのですか。笑わせないでください。

 これは本質的に卑怯なことですよ。

 わたしも、物事の根源に立ち返ってしっかり考える習慣を、より意識的に強化しようと思います。